2009.12.31. 「授業は英語で」問題の対立軸を整理する

長文になりますので、まず結論だけ端的に述べておくことにします。

高等学校の新しい学習指導要領に「授業は英語で行うことを基本とする」という文言が入ったことに関して議論がなされていますが、この問題について考えるにつれ、どうやら次の4つの対立軸を整理しなければならないのではないかと思い始めました。

 1.「授業は英語で」を強制することが適切か否か
 
 2.「英語で行う授業」に求める内容は、「英語でできる範囲」にとどめてよいのか「日本語でできる範囲と同じかそれ以上」なのか
 
 3.コミュニケーション能力育成という目的に照らして「授業は英語で」は指導原理として有効か否か

 4.「授業を実際のコミュニケーションの場面とする」という方針が適切か否か

「賛成」と言うにも「反対」と言うにも、どの対立軸においてそれを言うのかを明確にしておかなければ、議論は「平行線」どころか「ねじれの位置」で進行してしまい、決して有意義な「交点」を見出すことはできなくなるでしょう。これまでも英語教育にまつわる議論は、立脚点の違う意見がまさに百家争鳴の状態でそれぞれ一方的に述べられることが少なくなかったように思いますが、たとえば「理想を高々と掲げる文科省 vs 現実に疲弊する教員」のような構図に陥ってしまうと、前進するものもしなくなってしまいます。

そういった虚しい事態に陥ってしまわぬよう私なりに試みた論点整理が、上の4つの対立軸です。

以下、問題設定から順を追って述べていくことにします。

さて、文部科学省から、2009年12月25日付けで、新しい高等学校学習指導要領の解説が出されました。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/1282000.htm

この新学習指導要領については、「案」の段階でパブリックコメントの募集があり、私も、

http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/public_comment2009.html

のような内容で応じました。

学習指導要領は、簡潔な文書でありながらいろいろな観点を含むものですので、これら以外にも議論の的となる箇所はいくつもあるかと思います。

特に今回何かと話題になるのが、「第3章 英語に関する各科目に共通する内容等」の「4」(上記PDFファイルでp.47)に述べられている、

「英語に関する各科目については,その特質にかんがみ,生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため,授業は英語で行うことを基本とする。その際,生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする。」

です。

「授業は英語で行うことを基本とする」の一言があまりに大きなインパクトを持ってとらえられたゆえか、改訂案が公表された当初、マスコミに大々的に取り上げられ、英語教育関係者以外にも衆目を集める事態となりました。

その後、「文科省サイド」から、必ずしも完全なる強制を意図したものではなく、従来も唱えられてきた基本方針の確認に過ぎず、マスコミがセンセーショナルに反応しただけ、といった論調の「説明」がいくつかなされました。

たしかに、マスコミはこういった価値論を多分に含む話題については、まず結論ありきで偏った内容を報じることがありますから、マスコミの「あおり」だという説明が全くの言い訳・責任転嫁だとは思いません。

しかし、その一方で、法的拘束力を持つ学習指導要領の本文に明文化されて書き込まれているわけですから、軽々に扱うわけにはいきません。少なくとも10年ほどにわたっては高校英語教育を規定する、法的拘束力を持つ公式文書の言うことを軽く扱うことは、法治国家の秩序を乱す悪しき前例を作ることにしかなりません。

学習指導要領の法的拘束力をそもそも論点にするべきだという立場もありましょうが、ここでは、とりあえず現状に従い、法的拘束力があることを前提として話を進めます。

さて、その学習指導要領の法的性格から、これまでもその遵守が厳しく取り締まられてきた経緯があります。そう考えると、こと英語授業の件に関してだけ現場の裁量が大きく認められるというのは、ありそうにない話です。

このあたりの表面的な言説に隠された「イデオロギー」については、寺島(2009)『英語教育が亡びるとき』(明石書店)が詳しく鋭く論じるところです。同書の主張についても稿を改めて考察したいと思いますが、ここでは、「文科省サイド」の後付け的な説明が必ずしも信用に足るものではなく、学習指導要領を最前線で実施する学校教員は、この問題について、かなり慎重に考えねばならないことを指摘する立場があることに言及しておきたいと思います。

いかに完全一律の強制を意図するものでないとはいえ、「授業は英語で」という思想が新指導要領において相当強く働いていることは、「解説」の次のような説明からも読み取ることができます。(読みやすさに配慮して、適宜改行を加えています。)

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 「授業は英語で行うことを基本とする」こととは,教師が授業を英語で行うとともに,生徒も授業の中でできるだけ多く英語を使用することにより,英語による言語活動を行うことを授業の中心とすることである。これは,生徒が,授業の中で,英語に触れたり英語でコミュニケーションを行ったりする機会を充実するとともに,生徒が,英語を英語のまま理解したり表現したりすることに慣れるような指導の充実を図ることを目的としている。
 
英語に関する各科目の「特質」は,言語に関する技能そのものの習得を目的としていることである。しかし,このような技能の習得のために必要となる,英語を使用する機会は,我が国の生徒の日常生活において非常に限られている。これらのことを踏まえれば,英語に関する各科目の授業においては,訳読や和文英訳,文法指導が中心とならないよう留意し,生徒が英語に触れるとともに,英語でコミュニケーションを行う機会を充実することが必要である。
 
 授業においては,教師は,指導内容の説明,生徒が行う言語活動の指示や手本の提示を行い,生徒の理解や活動が円滑に進むように手助けをした上で,生徒の活動を励ましたり講評を行ったりしている。授業を英語で行う際は,これらの指導を英語で行うことになる。簡単な指示のみを英語で行うのではなく,例えば,説明や生徒の理解の手助けを行う際も,英文の内容を簡単な英文で言い換えるなどすることにより,授業を英語で行うよう努めることが重要である。

 英語による言語活動を行うことを授業の中心とするためには,読む活動においては,生徒が,生徒の理解の程度に応じた英語で書かれた文章を多く読み,訳読によらず,概要や要点をとらえるような言語活動をできるだけ多く取り入れていくことが重要である。また,書く活動においては,読んだ英文を英語で要約したり,推敲を繰り返しながら主題に沿って文章を書いたりする言語活動をできるだけ多く取り入れていくことが重要である。和文英訳を行う場合も,伝えたい内容を十分整理し,知っている英単語や表現を用いて,工夫して書くような活動として行うことが重要である。さらに,外国語科や各科目の指導計画全体の中においては,読む活動や書く活動に加え,聞く活動や話す活動もバランスよく取り入れることが必要である。

 英語に関する各科目を指導するに当たって,文法について説明することに偏っていた場合は,その在り方を改め,授業において,コミュニケーションを体験する言語活動を多く取り入れていく必要がある。そもそも文法は,3のイに示しているとおり,英語で行う言語活動と効果的に関連付けて指導するよう配慮することとなっている。これらのことを踏まえ,言語活動を行うことが授業の中心となっていれば,文法の説明などは日本語を交えて行うことも考えられる。

 「生徒の理解の程度に応じた英語」で授業を行うためには,語句の選択,発話の速さなどについて,十分配慮することが必要である。特に,生徒の英語によるコミュニケーション能力に懸念がある場合は,教師は,生徒の理解の状況を把握するように努めながら,簡単な英語を用いてゆっくり話すこと等に十分配慮することとなる。教師の説明や指示を理解できていない生徒がいて,日本語を交えた指導を行う場合であっても,授業を英語で行うことを基本とするという本規定の趣旨を踏10 まえ,生徒が英語の使用に慣れるような指導の充実を図ることが重要である。

このように,本規定は,生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため,授業を英語で行うことの重要性を強調するものである。しかし,授業のすべてを必ず英語で行わなければならないということを意味するものではない。英語による言語活動を行うことが授業の中心となっていれば,必要に応じて,日本語を交えて授業を行うことも考えられるものである。

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たしかに後半部分が述べるところでは、大事なことは英語による言語活動を豊富に行うことであり、文法の説明など必要に応じて日本語を使用することを完全に排除するものではないという方針がよく伝わってきます。

しかし、その一方で、

「生徒が英語に触れるとともに,英語でコミュニケーションを行う機会を充実することが必要である」

「説明や生徒の理解の手助けを行う際も,英文の内容を簡単な英文で言い換えるなどすることにより,授業を英語で行うよう努めることが重要である」

という説明を見れば、やはり「日本語を主たる使用言語とする英語授業をやってもかまわないんですよ」と読むことはできません。

どこまでできるかは別として、全ての英語教員が「授業を英語で行うよう努める」ことが法的に指示されているわけで、ということは、つまり、何はともあれ、英語で授業を運営してみることは必ず試みてみなければならないということになります。

いかに「授業のすべてを必ず英語で行わなければならないということを意味するものではない」と言われようと、「理想は、やはりall in English」という意図は読み取ることができるように思います。

さて、「all in Englishでやってみなさいよ」と言われて「はいはい、いいですよ」と言える教員ばかりなら問題も少ないのですが、実際そうは行きません。というより、むしろ、そうは行かない実態があるからこそ、「授業は英語で」が明文化されたという方が正確でしょうか。このあたりにそもそも矛盾と言うか無理と言うか、素直でない事情があるわけですが、それがこの問題を余計に難しいものにしてしまっているのかもしれません。

そういった前提を踏まえて、冒頭に述べた4つの対立軸について説明します。

1.「授業は英語で」を強制することが適切か否か

「授業は英語で」という授業の作り方自体の是非はさておき、それを学習指導要領という法的性格のある文書でもって強制することを問題視するかどうか、という対立軸です。

反対論の立場としては、状況に応じて、それが効果的だと判断されるのであれば、英語で進める授業があってもよいのだけれども、個別の状況への配慮もなく全国一律に強制されることには反対、という論になります。

これについては、上の「解説」に述べられているように「必要に応じて」日本語を交えることも明示されていますので、懸念には及ばない、と考えることができるかもしれません。

しかし、上に述べたように、新学習指導要領全体のトーンが「授業は英語で」を理想とするものである以上、そこにいくらかの強制力がないとは言えません。たとえば、新学習指導要領の実施にあたって、各地で教育委員会が主導して研究・研修が進められることでしょう。そこで、たとえばある学校で研究授業をやるとなったときに、指導主事は授業者にどのような授業を求めるのでしょうか。やはり、できる限りall in Englishに近づく授業を求めることになるでしょうし、研究授業後の批評会などでも、「授業は英語で」の方針が理想として語られることでしょう。

そうすると、「必要に応じて」という一言を根拠に「その日本語は本当に必要なの?」という問いが発せられてくるでしょう。もちろん、「必要です」と言い切れるならばよいのでしょうが、往々にして、「そんな面倒くさいことを言われるのだったら、多少無理してでも英語でやっておいた方が無難だな」という消極的判断を引き出してしまうことも少なくないのではないでしょうか。

これは暗黙ながら立派な強制とも言えます。暗黙のうちのことだからこそ、余計に強力なものかもしれません。

こういったことについて、「それでも授業は英語でやるべきだ」と主張するのか、「そんな強制はごめんだ」と主張するのか、そこで対立軸が生じているように思います。

 
2.「英語で行う授業」に求める内容は、「英語でできる範囲」にとどめてよいのか「日本語でできる範囲と同じかそれ以上」なのか

次に、仮に「授業は英語で」の方針を受け入れることを前提にするとして、では、その授業で扱うべき内容および到達すべき目標をどこに設定するかという問題があります。

よく言われるように、all in Englishの授業を試みようとすると、どうしても日本語で授業を運営するよりも教材の扱いが浅いレベルにとどまってしまう、とか、生徒の深い思考を導くのが困難だ、といった反論があります。

これは、従来主に日本語で運営してきた授業の内容を所与のものとして、それをそのまま英語で運営する授業でも扱うことが前提とされた論です。

この前提に立つとたしかに、日本語(母語)を媒介にしてすら読み書き聞き話したことのないような話題について英語で読み書き聞き話そうとするわけですから、難しいことになるというのは容易に想像がつくところです。

しかし、実はその前提は決して自明のものではありません。

それは、「だったら、英語で扱える範囲のことだけやればいい」という考え方もありうるからです。なにも「深い」内容にこだわらずとも、英語で運営できる範囲で生徒のコミュニケーション能力を伸ばすように授業を組み立てることができるのであれば、それで問題はないはずという考え方です。

別の角度から言うならば、「コミュニケーション能力を高めるのに、そんなに<深い>ことをやる必要が本当にあるの?」とでもなりましょうか。

このあたりは和訳先渡し方式の先駆者たちが問題にしていたところで、極端な言い方をすれば、日本語を媒介にしなければ扱えないような「深い」内容など教員の自己満足に過ぎず、英語によるコミュニケーション能力の育成には関係がないか、むしろ逆効果かもしれない、という問題意識です。

このどちらの立場を取るかを明確にしておかなければ、「授業は英語で」への賛成論も反対論も、お互いにかみあわない議論になってしまいます。

蛇足ですが、この対立軸を推し進めていくと、学校英語教育の目的は何か、という目的論に行き着くように思います。「コミュニケーション能力」を第一義とするのか、あるいは「英語力」なのか、「英語への興味関心」なのか、「生きる力」なのか。「コミュニケーション能力を育てるには授業は英語で行った方が良いかもしれないけど、英語力を育てるには、むしろ日本語を活用した方がいい」という議論が可能だからです。

現実問題としては学習指導要領の言うことが学校教育のルールですから、現場の教員は「コミュニケーション能力」を育てるべきだという点では一致しておかなければならないわけですが、議論はありえるのです。

 
3.コミュニケーション能力育成という目的に照らして「授業は英語で」は指導原理として有効か否か

では、コミュニケーション能力を育成するという目的論は承服したとして、「授業は英語で」という方針は、本当にその目的を達成するのに最も効果的なものなのであろうか、という点も問題です。

関連する話題として私が論じたこととして、
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/Why_Com.html
があります。

一見、たしかに英語によるコミュニケーション能力を伸ばすのだから、英語で授業を行うのが合理的であるようにも思えるのですが、たとえば白畑・若林・須田(2004)『英語習得の「常識」「非常識」』(大修館書店)は次のように述べ、こういった考え方の検証が困難であることを認めています。

「ただし、検証したくても検証不可能な項目も少なからずありました。それは、例えば、「オール・イングリッシュの授業の方が効果があるのか」「ネイティブ・スピーカーに習う方が上達しやすいのか」といったものです。こういったテーマの検証は十分意義あるものですが、現実問題として、検証は大変困難になります。なぜなら、客観的に実証するには複雑な要因が入り交じり過ぎているからです。したがって、今のところ、上記の疑問に対する応えは「先行研究がないから分からない」です。」(p.x)
検証が困難なのですから、「授業は英語で」という方針が正しいかどうかもわからない、というのが実情です。

教育では、必ずしも実証済みのことしか行ってはならないというものではありませんから、「授業は英語で」を実験的に実施してみることは許される範囲内のことだと思います。けれども、あくまで実験段階のことであって、学習指導要領に書き込めるほど確定した事実でもないかもしれない、ということは留意すべきです。

ひょっとすると、日本語を媒介として英語の言語活動を行ったとしても同様の成果が得られるのであれば、無理して英語だけで授業を運営する必要もなくなります。これについて、「やはり英語でやることが必要だ」と考えるかどうかで対立軸が生まれます。


4.「授業を実際のコミュニケーションの場面とする」という方針が適切か否か

最後に、3の対立軸から派生してくるところですが、「授業を実際のコミュニケーションの場面とするため」という目的設定が適切であるか、という問題があります。

実は、授業を英語で行うかどうかということよりも、この点こそ、十分に実践と議論を重ねなければならない部分ではないかと思います。

つまり、学校英語教育における授業とは、いったいいかなる場であるべきなのか、という定義の問題です。

学習指導要領が求めるのは、授業をコミュニケーションの場としてください、ということです。これは、単に授業の一要素として言語(コミュニケーション)活動を取り入れなさい、ということではなく、むしろ、授業そのものがひとつの言語(コミュニケーション)活動だと考えなさい、ということです。
学習指導要領本体や解説ではそれほど明確には規定されていませんが、たとえば大下(2009)『コミュニカティブクラスのすすめ』(東京書籍)が「コミュニカティブクラス」と呼ぶ授業のあり方は、最も先鋭的なもののひとつでしょう。

これは、「コミュニケーション」を要素的に取り入れることを前提としてきた従来の授業観を突き抜けた新しい授業観だと言えます。

しかし、この授業観=英語授業の定義を是としてよいかは自明のことではありません。日本のような環境で英語を学ぶ場合、あまりコミュニケーションに傾倒しても実りは少ないかもしれず、むしろ「語学」と割り切って、実際のコミュニケーションに照らせば不自然でも、外国語学習としては効果的な活動を重視するほうが良い、という考え方もあります。

学校での英語授業が何をなすべきか、その定義が議論の対立軸となるわけです。


以上、「授業は英語で行うことを基本とする」をめぐる議論について論点整理を試みました。

上のような4つの対立軸を設定して、どの対立軸でどの立場を取るのかをひとつひとつ整理しておくと、この問題がより考えやすいものになるのではないかと思っています。

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