2006.7.17. なぜ「コミュニケーション重視」なのか


現在の学校英語教育では「コミュニケーション」がとても重視されています。『高等学校学習指導要領』では、外国語科の目標が次のように述べられています。

外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする実践的コミュニケーション能力を養う。
はっきりと「実践的コミュニケーション能力を養う」ということが学校での外国語教育の目標に掲げられているわけです。これは、わざわざ私が指摘し、学習指導要領を引用して示すまでもなく、学校英語教育に携わる人々の間では、常識以前の事柄かと思います。もちろん、「コミュニケーション重視」を快く受け入れている人もいれば、頑なに拒絶反応を示す人もいて、また「コミュニケーション」そのものの定義や内実に関しても諸説あることはたしかです。しかし、どのような議論をするにしても、現在の学校英語教育がコミュニケーション重視の方向で動いているということは、厳然たる事実であると言ってよいでしょう。

しかし、今、私にはわからないことが1つあります。それは、「なぜ、コミュニケーション重視なのか?」ということです。

誤解しないでいただきたいのですが、これは「コミュニケーション重視でなくてよいではないか」「コミュニケーション重視なんてやめてしまえ」という意味の修辞疑問ではありません。純然たる問いです。文字通り、「なぜ、コミュニケーション重視なのか?」それが私にはわからないのです。

「コミュニケーション重視」に対する理由づけのいくつかは知っているつもりです。しかし、それらは必ずしも一貫した論理に拠るものではありません。世俗的な語学論において「コミュニケーション重視」がしばしば批判の的とされ、その批判があながち的外れともいえないことが多いのも、「コミュニケーション重視」の基盤がどこにあるのかが見えにくいことと無関係ではないように思います。

そこで、まず私が理解している限りにおいて、「コミュニケーション重視」を支持する立場を整理してみたいと思います。

議論を厳密にするためには、「コミュニケーション重視の英語指導」とは何か、という定義づけをせねばならないでしょう。しかし、この分野については膨大な研究がこれまでになされてきており、それらを踏まえたうえで、ここで精密な定義をすることは、私の能力を超えています。また、現実的な問題として、学会などのアカデミックな文脈を除き、現場の教員が「コミュニケーション」を語るときに、それほど精密な定義に基づいて議論が行なわれているとも思われません。

そうしたことから、私はこの場では、「コミュニケーション重視の英語指導」については、むしろ通俗的な定義を掲げて議論に入っていきたいと思います。いちおう言葉として表しますと、「言葉とはコミュニケーションの手段であり、学校で英語を学ぶ最大の意義・目的は、英語を手段としてコミュニケーションをする能力を獲得することである」また、「学校の授業で英語を教えるにあたって、その指導法は、教員の説明やドリル的文法練習、日本語への置き換えといった活動ではなく、実際のコミュニケーションに近い状況において、生徒自身が実際に英語を用いるようなやり方を中心にすべきだ」というような考え方と言えるでしょう。

このような前提で、「コミュニケーション重視の英語指導」を支持する立場を以下に整理してみます。


1.英語によるコミュニケーション能力を身につけることが大切であり、したがって、それが学校英語教育の目標であり、さらに、その目標を達成する手段としてもコミュニケーション重視の指導法がふさわしい、という考え方

おそらくこれが一般的な立場ではないでしょうか。学習指導要領の解説においても、外国語によるコミュニケーション能力を身につけることが目標である旨の記述がありますし、一般の英語教育関係者が漠然と抱くイメージではないかと思います。

しかし、私はこの考え方には納得していません。というのは、これが真であるためには、いくつかの前提がクリアされなければならないからです。

まず、「英語によるコミュニケーション能力を身につけることが大切」という部分ですが、これにはかなり主観的な価値判断が含まれます。「国際化の時代だから英語力が必要だ」という単純な言説がいかに誤ったものでありうるか、という点は、山田(2005)が指摘するとおりです。もちろん、この世の中のある種の人々に高い英語力が求められているのは事実であるし、日本で学校教育を受ける人々の中で、英語を流暢に操れる人材が増えれば、企業内英語教育のコストが削減できるという意味で、日本企業の競争力にいくぶんか寄与するであろうということは確かに言えるだろうと思います。

しかし、学校教育を受ける全ての人に実用的な英語力が必要なのかといえば、そうは言えないだろうと思うのです。事実、日本は言語的にはある意味で幸せな環境にあるといえるわけで、第二言語を習得せずとも社会生活は問題なく送ることができるし、入学試験さえパスすれば第一言語で高等教育を受けることもできるわけです。「大学では英語による論文を読む必要がある」などという主張を聞くこともしばしばですが、そのような必要がある大学生はある程度限られた範囲にとどまるのが実際のところでしょう。(事実、学部レベルに限れば、英語学や英語教育に関するレポートですら、日本語の文献だけで書けてしまうのではないでしょうか)。

そうすると、英語力を身につけておいて役に立つとすれば、せいぜい海外旅行で要らぬ苦労をしなくてすむ、という程度のことではないかと思うのです。とすると、学校英語教育は企業のため、あるいは海外旅行のために行なわれるのか、という問いを発せざるを得ません。

「その通り。学校英語教育は企業やレジャーのためにやるのだ。」と言う立場をとるのであれば、論理としては一貫しているでしょう。しかし、少なくとも国家の公的な立場はそうではありません。私自身もそのような立場をよしとする気にはなれません。

また、仮に外国語(英語)によるコミュニケーション能力を身につけることが現代の日本で学校教育を受ける人々にとって必要なことであるという点は認めるとしましょう。しかし、そうだとしても、その目標を達成するための手段としてコミュニケーション重視の指導法が最適であるかは、また別の問題です。

たしかに、コミュニケーションに使用する言語能力なのだから、その力が発揮されるべき状況に近い形で学習した方が効率が良さそうだ、という素朴な感覚はあるかもしれません。しかし、忘れてならないのは、コミュニケーションそのものは第1言語で既に充分に経験を積んでいるものであり、その経験はかなりの程度言語を超えて転移するということです。したがって、英語教育においてハードルとなるのは、コミュニケーションそのものよりも言語である、というのが実際のところではないかと思うのです。

世俗的な語学論で珍しくないのは、「英文和訳と和文英訳と音読をしっかりやれば、使える英語は身につく」というような考え方です。私自身の学習経験を振り返っても納得するのですが、実際のところ、これは、学習論としては一面の真実であると思います。訳読式の英語教育を受けながら、おおよそ充分な英語運用能力を身につけた人は少なくありません。つまり、「コミュニケーション」はさておき「言語」の部分を集中的に鍛えるやり方も通用するということです。

急いで付け加えますが、私はコミュニケーション重視の指導法が効果的でないと言っているのではありません。文法訳読式に回帰せよ、と言っているのでもありません。

私が呈したい疑問は、仮に英語によるコミュニケーション能力が学校教育を受ける全ての人に求められているとしても、その能力を身につける手段は、理屈の上では、必ずしもコミュニケーション重視の指導法でなくてもかまわないのではないか、ということです。英文和訳・和文英訳・文法解説ゴリゴリの指導法であっても、最終的にコミュニケーション能力が身につけばよい、と言えるからです。

もちろん、「ゴリゴリ」の指導法を通じてコミュニケーション能力を身につけるには、それなりの前提条件があるだろうということには、私も気づいてはいます。簡単に言えば、学習者の動機が高いことです。訳読式の指導法を受けながら一定の英語運用能力を身につけるには、必ず自主的な学習が必要です。学校の授業時数だけでは、充分な時間が確保できないという前提を認めるならば、この点は無視できません。たとえば、授業の予習として、辞書を引きながら英文を全て和訳し、授業では文法や語法と模範訳を確認し、家に帰っては、復習として、スラスラと読めるようになるまで音読練習をしたり、模範訳を逆に英訳して元通りの英文を作る練習(復文)を繰り返してみたり、という自主的な学習があってこそ、訳読式の授業が活きてくるのだと思います。

逆に、そんな努力を敢えてしようとは思えない、動機のそれほど高くない学習者にとっては、文法訳読の「ゴリゴリ」は苦痛以外の何物でもないでしょう。そういうときにコミュニケーション重視の指導法が1つの救いになる、という面はあると思うのです。文法・語法の理解と暗記や機械的なドリル、あるいは音読練習といった、いかにも「語学」的な訓練はなるべく背景に引き下げておいて、表面的には「気楽」に思える活動が主体の「コミュニケーション重視の授業」(それが本来の姿かどうかはともかく…ですが)の方が、英語学習に取り組む意欲が湧きやすいということは充分にありえます。

しかし、ということは、英語指導において大切なのは、文法訳読式かコミュニケーション重視か、といった、見た目に分類された指導法ではなく、むしろその過程で生徒がどれだけ英語学習に向かって動機づけられているか、あるいは、指導者が動機づけることができるかという要因であることになります。「どのような指導法が適しているか」という問題は、結局「どれだけ動機づけに成功しているか」という問題に還元されてしまうわけです。

つまり、英語による実践的コミュニケーション能力を育成するという目標を是認するにしても、それを達成する手段としてもコミュニケーション重視の指導法が適している、とは、一概には言えなくなってしまうのです。(この辺りの議論は、後に述べる3や4の立場とも関係してきます。)

そういうわけで、英語によるコミュニケーション能力が目標であり、その目標を達成する手段もコミュニケーション重視の指導法であるべきだ、という主張は、充分な説得力を持つものではないと思われます。


2.英語の運用能力(それがコミュニケーションに使われるかどうかはさておき)を高めることが目標であり、それを達成するための手段として、コミュニケーション重視の指導法が効果的である、という考え方

これは、1の立場よりも、より技術的な観点に立つものです。身につけた英語力をどのような用途で使うかは学習者しだいである。しかしながら、その英語力を鍛えるにはコミュニカティブな指導法が適している。という考え方です。

この考え方についても、上の1の後半で述べたような懸念が当てはまります。つまり、コミュニケーション重視の指導法が、本当に英語力伸長に最適であるのかは不明ということです。たとえば、大学入試のために英語を学ぶ学生は、おそらく英会話学校ではなく予備校に通うことでしょう。そして、その一斉講義形式の授業に満足感を覚え、学習意欲を刺激されて英語学力を伸ばすことは普通に見られることです。

学校の授業をそれと同様に考えるのは間違いでしょうが、それでも、いかなる学習目標に対してもコミュニケーション重視の指導法が適している、とはならないだろうと思うのです。

もちろん、学校においてコミュニケーション重視の指導を展開し、生徒が目覚しく英語力を伸長させている例は、実際にあります。特に、いわゆる「普通の」学校、あるいは「荒れた」学校と言われるところでもそうした指導が奏功している現実を見ると、いかにもコミュニケーション重視のやり方が良いかのように感じてしまいます。

しかし、そういった指導がなぜ効果的かを、もう少し落ち着いて考えてみると、その答えは、結局、1で述べたように、生徒の学習動機という一点に還元されていくのです。

つまり、コミュニケーション重視の指導法を通じて得られた好ましい成果は、「コミュニケーション重視」の指導そのものによって得られるものというよりは、そういった指導を行なうなかで生徒の情意面に働きかけていることによるものだということがわかります。たとえばチャレンジ意欲が刺激されたり、仲間との共同作業の楽しみが得られたり、何らかの緊張場面に立たされたりするような局面があると生徒は授業に積極的に取り組むようになります。

それは、コミュニケーション重視の指導が必然的に要求するものというよりは、どのような指導法を採るにしても当てはまる部分が大きいものです。したがって、この部分に対する理解が浅いままに表層的な指導(いわゆる「達人」の表面的活動を模倣することなど)をすると、むしろ逆効果でさえあることがあります。逆に、生徒の情意面にうまく働きかけさえすれば、講義調の授業でも好ましい結果を生むことができるかもしれないのです。

ということで、この立場は、1の立場よりは、生徒と英語との付き合い方に一方的な決め付けがないぶんだけ好ましい立場であるようには思えるのですが、それでも充分に強い立場であるとは言えないと思います。


3.英語の運用能力というよりも、目の前の生徒を学校に引きとどめ、あるいは授業を成立させることが目標であり、生徒の学習動機が維持できるという意味で、コミュニケーション重視の指導法を手段とする、という考え方

これが、現状においては最も説得力のある立場かもしれません。英語力を伸ばす・伸ばさないという、純粋な語学論・言語教育論としてコミュニケーション重視の指導を捉えると、上の1・2で述べたような限界が出てきます。しかし、現実の英語教育は決して純粋な語学論や言語教育論だけで片付くものではありません。均質な「学習者」ではなく、生身の「生徒」が相手ですから、「こうすれば英語力が伸びる」という理屈だけでは通用しないことが多々あります。というより、英語を身につけたいと積極的に思っている生徒は少数派で、あとは「学校の授業だから」というだけで教員の指示に従っている真面目な生徒と、あからさまに学習意欲を示さない生徒が、一定の割合で混在しているというのが、多くの学校での現状でしょう。

そのような状況においては、生徒に何とか英語学習に興味を持ってもらおう、あるいは少なくとも生徒を授業につなぎとめておこう、という思惑が教員に働くでしょう。そのためには、やはり講義調の授業よりは、生徒が主体となって活動する場面の多い授業の方が、生徒のストレスも少ないかもしれないし、いくらかは英語学習に積極的になってもらえることが多いのではないかと思います。

そういった動機からコミュニケーション重視の指導法を採用する教員は決して少なくないだろうと思いますし、特に中学校においてその傾向が強いかもしれません(実態をよく知らないので、推測にすぎませんが)。

このあたりのことは、俗な語学論・英語教育論では無視されている(というか気づかれていない?)論点なのですが、学校というコンテクストにおける英語指導・学習を論じるならば、絶対に無視してはいけない部分です。語学の論理ではなく、クラスルーム・マネジメントあるいは生徒指導の論理においてコミュニケーション重視の英語指導を語ることは、副次的な話に見えて、実は問題の本質と深く関わってくることだと思います。

ただ、この立場の難点は、現場の教員の共感は得られても、現在の日本の学校英語教育における公的な考え方ではないということです。文科省がコミュニケーション重視を言うときに、こういったマネジメントの観点から語られることはまずありません。コミュニケーション重視の指導は、公的には、「応用言語学的」な発想から論じられるべきものであるかのようです。


4.英語によるとよらずとに関わらず、生徒たちに他者と関わること(=コミュニケーション)を学ばせることが目標であり、英語授業におけるコミュニケーション重視の指導法は、そのために適した手段である、という考え方

英語の技能育成という視点を離れ、いわゆる「人間的価値」に重きを置く考え方です。グループ・エンカウンターの手法などを英語授業に取り入れていくような立場が1つの例でしょう。

この考え方は、ひじょうに曖昧模糊とした価値観に対する信条を「コミュニケーション重視」の根拠としているところから、必ずしも万人に納得され、受け入れられるものではないと思います。少なくとも公式には、学校英語教育は「英語の教育」とみなされています。もちろん、教育基本法を踏まえれば、「英語を通じた人間教育」という要素が前提とされているとはいえるでしょうが、「英語の教育」を副次的なものとしか捉えないこの立場は、コミュニケーション重視の英語指導を支える中心的な哲学とはなりえないでしょう。

しかし、その一方で、心情的にはこの考え方も理解できるという教員は、少なくはないと思われます。上の3で述べたこととも深く関わることですが、他者とのコミュニケーションが上手に図れない生徒たちが目の前にいて、「英語の授業を通じて、人との関わり方を学んでもらえたら嬉しい」という思いを教員が抱いても、何の不思議もないだろうと思うのです。

そういう意味で、Communicative Language Teaching の本来の出発点とは大きく異なりますが、日本の学校という文脈において、CLTの副次的あるいは派生的な価値として、そういった「人と人との関わり合い」という要素が着目されることは、決して非難されるべきことではないでしょう。

また、これは英語教育界の常識には全く反することでありますが、学習指導要領の文言を「素直に」読むと、この4の立場に読めてしまう、というのが私の率直な感想です。
「外国語を通じて,言語や文化に対する理解を深め,積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする実践的コミュニケーション能力を養う。」

常識的な解釈としては、「<外国語を通じて積極的にコミュニケーションを図る>態度の育成」と読むべきなのでしょうが、『解説』を読まずにこの文言だけを読んでみますと、「外国語を通じて<言語や文化に対する理解を深める>」+「外国語を通じて<積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図る>」とも読めてしまうのです。

「外国語を通じて」と「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り」が分断されているので、どのように分節して読めばよいのかがわかりにくいのです。

また、「外国語を用いて積極的にコミュニケーションを図ろうとする・・・」という表現であれば誤解の余地はないのですが、「外国語を通じて」となると、必ずしも当該の外国語の使用は本質的な要素ではないようにも理解されるのです。

そういうわけで、この4の立場も、あながち学習指導要領から離れているとは言い切れないのではないか、という思いもするわけです。

念のため付け加えておきますと、コミュニケーション重視の英語指導、あるいはCommunicative Language Teaching (CLT) の古典とも言うべきLittlewood (1981) には、実は、この考え方に近い(とも読み取れる)ことが述べられています。

Communicative activity provides opportunities for positive personal relationships to develop among learners and between learners and teacher. These relationships can help to "humanise" the classroom and to create an environment that supports the individual in his efforts to learn. (p.18)

The encouragement of such (=supportive and accepting) relationships is an essential concern of a communicative approach to foreign language teaching. Clearly, it is a concern which cannot be satisfied through methodology alone, since it involves a wide range of personality factors and interpersonal skills. However, the teacher is helped by a number of important aspects of the activities discussed in this book. For example:
  (中略)
- The emphasis on communicative interaction provides more opportunities for cooperative relationships to emerge, both among learners and between teacher and learners.
- Communicative interaction gives learners more opportunities to express their own individuality in the classroom. It also helps them to integrate the foreign language with their own personality and thus to feel more emotionally secure with it. (p.94)

もちろん、時代も国も異なることですから、Littlewoodの述べたことが、現代日本の学校教育のような状況を想定してのことなのかは不明です。しかし、このような古典的著作において、コミュニケーション重視の指導法が、語学論としての有効性だけでなく、一種の「教育的価値」という側面からも論じられていたことは、決して無視されてはならないことだと思います。



さて、以上、私の主観において、「コミュニケーション重視」を支持する立場を4つに整理してみました。4つの立場を以下に再掲しておきます。

1.英語によるコミュニケーション能力を身につけることが大切であり、したがって、それが学校英語教育の目標であり、さらに、その目標を達成する手段としてもコミュニケーション重視の指導法がふさわしい、という考え方

2.英語の運用能力(それがコミュニケーションに使われるかどうかはさておき)を高めることが目標であり、それを達成するための手段として、コミュニケーション重視の指導法が効果的である、という考え方

3.英語の運用能力というよりも、目の前の生徒を学校に引きとどめ、あるいは授業を成立させることが目標であり、生徒の学習動機が維持できるという意味で、コミュニケーション重視の指導法を手段とする、という考え方

4.英語によるとよらずとに関わらず、生徒たちに他者と関わること(=コミュニケーション)を学ばせることが目標であり、英語授業におけるコミュニケーション重視の指導法は、そのために適した手段である、という考え方

3、4の立場に関して言えば、学校現場に身を置き、なんとか生徒に良い方向に変容してもらいたいという切実な思いを抱く教員が、「たまたま」英語を教える教員であったがために生まれてきた発想であるといえるでしょう(乱暴な言い方ではありますが)。これらの立場においては、英語力を育成するためにどのような指導法が効果的か、という観点は主たる問題ではありません。いうなれば、生徒指導(生活指導)の観点からコミュニケーション重視の指導法を支持しているわけであり、極論すれば、それが英語力伸長にとって効果的であるかどうかは二の次であるとさえいえるでしょう。

しかし、現在の「コミュニケーション重視」の流れの発端は、そういった生徒指導的な発想によるものではありません。あくまでも「英語の教育」という観点から、「どういう指導法をとれば、効果的に生徒の英語力を伸ばすことができるのか」という問いが発せられ、それに対する答えとして、「コミュニケーション重視」が掲げられているはずなのです。

となると、1や2の立場が、「コミュニケーション重視」を支持する本来的な立場であるといえるのでしょうが、既に述べたように、これらの立場は、必ずしも論拠として強いものではないと思うのです。

そうすると、「じゃ、なんでコミュニケーション重視なの?」という素朴な疑問が、やはり湧いてくるわけです。端的に言えば、現在の「コミュニケーション重視」の理論的根拠は、実はあまり強くはないんじゃないか?という疑念です。

繰り返しますが、私は「だから、コミュニケーション重視なんかやめてしまえ」と言うつもりはありません。現場の教員としては、3や4の立場には共感を覚えるのです。それがCLTの本来的な姿であるかどうかはさておき、日本の学校教育という文脈の中では、コミュニケーション重視の指導法に無視できない教育的価値がある以上、それは大切にすべきことだと思います。それに、英語指導のスタイルは、効果的でありさえすれば多様であってよいと思いますので、選択肢の1つとしてコミュニケーション重視の立場もあってよいのです。

ただ、「コミュニケーション重視でなければ現代的な英語教育ではない」とする風潮は、再考されてしかるべきか、という思いを私は抱いています。特に、各種の研修会や公開授業などにおいて、「英語授業はコミュニカティブでなければならない」「コミュニカティブでない英語授業は許されない」という暗黙の前提、あるいは一種の強迫観念とでもいうべきイデオロギーを感じることが多くあるのですが、それが逆に実践者に無用のプレッシャーを与え、実践者の自由で積極的な授業開発に手かせ足かせをはめているのだとしたら、それは全く意味のないことです。

なぜ英語教育はコミュニケーション重視なのでしょうか。根本的な部分を、しっかりと考えていきたいと思います。

なお、本文中でも言及したLittlewood (1981) や、同時期の古典であるWiddowson (1978) は、まことに恥ずかしいことに、最近になって読みました。もう30年近く前の文献ですから、現代日本のコンテクストとはおおよそ相容れない部分も大きいのですが、それでも、コミュニケーション重視の流れについて考えるにはひじょうに有力な手がかりを与えてくれるものでした。

Widdowson については、学習者の既有知識を積極的に活用しようという点が示唆的です。そのための方法論として提案されている、他教科の内容を英語で学ぶというやり方についてはともかく、「コミュニケーション重視の英語指導」が、学習者の生活感覚に根ざしたところで行なわれるべきだという主張は注目に値します(「生活感覚」という言葉は、同書を読んだ私なりの表現です)。決して、一定の形式を備えた「(擬似)コミュニケーション活動」を行なうことが「コミュニケーション重視」ではない、と解釈すべきではないでしょうか。

また、言語の操作にのみ焦点を置く、それ以前の指導法だけでは充分でないという立場を示しつつ、だからといってそれを拒絶しているわけでもない、ということも大切なポイントです。たとえば「訳 (translation)」について、単なる置き換えに終始する(relating two languages word for word or sentence for sentence)場合(usageとしての訳)には、言葉の表す意味から学習者の意識が外れてしまうという点で良くないとしています。しかし、その一方で、第1言語において知っていることを第2言語を通じても学ぶ(useとしての訳)場合は、第2言語によって表されている意味内容が、第1言語ではどのように表されているものかが鮮明に理解できるため、むしろ第2言語の学習にとって効果的であるという趣旨のことが述べられています。

このあたりは、「コミュニケーション重視」の浅薄な理解に基づいて日本語の使用を毛嫌いしてしまうような立場に対しては、痛烈な批判となるのではないでしょうか。(確たる理由もなく毛嫌いするだけの立場は、ということです。Widdowson流の考え方もきちんと踏まえたうえで、なおかつ理由があって拒絶している立場は含みません。誤解をなるべく避けるために、念のため言い添えておきます。)

また、Littlewood については、議論が単文単位の口頭コミュニケーションに傾斜しがちであり、まとまった文章を扱う読み・書きに対する意識が薄いように思われましたが、上述のように、コミュニケーション重視の立場を多角的に捉えている点はたいへん勉強になりました。

Widdowson にしても Littlewood にしても、学習者の最終目標が、対象言語を用いてのコミュニケーションであるという単純な前提がありますので、その前提から検討しなければならない現在の日本の学校英語教育に関しては、全てを是認するわけにはいかないのですが、30年前から既にこれだけ多角的な捉え方がコミュニケーション重視の英語指導に対してなされていたということについては、充分にその重みを感じなければならないのではないでしょうか。


[参考文献]
William Littlewood. 1981. Communicative Language Teaching. Cambridge University Press.
H.G.Widdowson. 1978. Teaching Language as Communication. Oxford University Press.
山田雄一郎. 2005. 『英語教育はなぜ間違うのか』. 筑摩書房

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