2011.3.1. 私の英語学習歴


本記事は「英語教育2.0」管理人anfieldroadさんによる企画「『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない」に参加するものです。

第1回は「私の英語学習歴」。他の皆さんの書かれた記事へのリンクは↓からどうぞ。

http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20110301/p1

個人的な回想は書きたい衝動にかられるものですが、当サイトでは、あまりそういうものは書かないようにしてきました。しかし、今回せっかくの企画ですので、ありがたく便乗して、私の過去を振り返ってみたいと思います。

良い機会を与えてくださったanfieldroadさんに感謝申し上げます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

さて、英語学習歴といっても、基本的には日本の学校制度の枠内で勉強してきました。英語に特化したカリキュラムで教育を受けたわけでもありませんし、学習環境としてはわりと一般的なものではなかったかと思います。

ただ、その中でいくつかのきっかけはあって、どういうわけかそれに感応してしまったもので、今こうして英語教育を生業にするに至っています。

そのきっかけを中心に、私の英語学習歴を振り返ってみることにします。

0.中学校以前:父親の Newsweek

私が英語をまともに学習し始めたのは、世間並みに中学1年生からでした。小学校6年生の時には、親に「基礎英語」を聞くように勧められて、いくらかはラジオの前に座っていた記憶がありますが、当時は何のことやらさっぱりわからず、面倒くさがりな性格なもので、けっきょく三日坊主で終わりました。おそらく、英語に大して興味はなかったのだと思います。

ただ、その後の私の英語観に影響を及ぼす経験はしていました。それは、父親が購読していた Newsweek です。

父の仕事は英語にも教育にも関係のない分野で、父自身も、当時、特別に英語が得意ということはなかったと思います。

勉強熱心な人ですから、一般教養として購読していたのでしょう(そういえば、今まではっきりとした理由を尋ねたことがありませんでした)。

私は子どもの頃から、そういうものが家の中に転がっているのを見ていましたし、たくさんの写真を見るのが楽しくて、私自身もペラペラとめくってみることもありました。当然、父が読んでいる姿も見ていました。

そういう状況ですから、子ども心に「大人になったら英語はできるようになるものだ」という感覚があったように思います。

後からわかったことに、難単語が頻出する Newsweek の文章を父がスラスラと読みこなしていたかといえばそうでもなかったようですが、子どもにはそんなことはわかりません。

今振り返れば、この経験は私にとって英語学習の「ハードル感」を下げ、また、英語学習に対する私の姿勢も方向づける働きをしたと思います。幸運なことでした。


1. 中学1〜2年生:2人のM先生

中学校に入学しました。地元の公立中でした。阪急宝塚線沿いの住宅街にある学校で、当時は市内でも指折りの荒れた学校でした。校長先生を中心に「建て直し」が図られていたと聞いたことがあります。

英語の授業ですが、1年生の時に教わったのはM先生という、若い男性教員でした。クラス担任は持っておらず、臨時採用の講師だったのではないかと思いますが、定かではありません。

この先生は、おそらくご自身の英語力に自信があまりない方だったのではないかと思います。ワンショットでALTが来たときも、生徒の前ではあいさつ程度の会話を交わすこともなく、授業はALTに任せっきりで、ご自身は教室の後ろでずっと観察されていました。

授業の詳しいことは忘れてしまいましたが、私がこのM先生に教えていただいてありがたかったのは、英作文(和文英訳)の宿題を頻繁に出してくださっていたことです。

宿題といっても、せいぜい数題をノートに書いていくだけのことで、新出文法の機械的な練習という以上の意味はなかったと思います。しかし、なにせ英語を習い始めたばかりの中学生ですから、少しでも何か自分が英語で言えると思えれば、それだけで偉くなったような気分になれたものでした。

2年生になると、M先生が転勤でいらっしゃらなくなり、学年の担任団でもあった別のM先生という、ベテランの女性の先生に教わることになりました。

このM先生(女)の授業は、M先生(男)とは全然違って英作文などはほとんど課すことはありませんでした。その代わり、というのもなんですが、ALTとも臆することなく英語で会話される先生で、「こんなふうに英語がしゃべれるようになったらいいな」という憧れを生徒に抱かせる方でした。

このM先生は、基本的には優しいのですが、怒るとコワく、生徒は授業でワイワイとやりながらも、どこか緊張感はあったように思います。ベテランでもあったし、荒れた学校の生徒たちとの接し方が上手な、力量のある先生だったのだと思います。

ただ、肝腎の授業の内容については、これまたよく覚えていません。教科書の和訳と音読と準拠のワークブックで演習、という感じではなかったかとは思うのですが。

このように、英語学習の最初の2年間にタイプの違う2人の先生方に教わったことが、私の英語学習に何か影響を及ぼしているのかはわかりませんが、まあ、そういうふうに私の英語学習は始まりました。

ただ、この時点では学校で出される宿題をやるぐらいで、自分なりの取り組みをすることはありませんでした。普通の公立中学校でマジメに授業を受けてる生徒、でした。


2. 中学2〜3年生:復元テスト

中学2年生から、学習塾に通い始めました。当時は多くの同級生が1年生の時から校区内の塾に通っていました。公立中学校に受験対策を求めてはいなかったのだと思います。

私はあまり塾に行きたいとは思っていなかったのですが、そういう流れもあって通うことになりました。ただ、同じ校区の塾だと学校の延長になってしまうと思い(私が思ったのか親がそう言ったのかは定かではありませんが)、隣の校区の進学塾に行くことになりました。

ここではちょっとしたカルチャーショックを受けました。

私の中学校はあまり進学実績が高くない学校で、それほどガリ勉(死語!)しなくても、校内ではそこそこの成績が取れていました。

ところが、この塾で一緒になった連中が通う中学校はとても落ち着いた学校で、学力も総じて高いのでした。その中でも進学への意欲が高い連中が集まってきていたものですから、当時の私のような勉強のやり方では、全然相手にならないのです。

塾のテストでも、私が「このくらいでいいだろう」と思うような勉強量では全然足りず、隣の中学校の連中がどんな勉強をしてきたのか聞いたら、「ええ〜っ!?そこまで徹底してやるの!?」と驚いてしまったくらいです。もちろん、上位層にとっては当たり前のことだったのですが。

さて、そんな環境で、自分の勉強のやり方を見直さなければならないなあと思わされたわけですが、この塾の英語科では、毎回定期考査の前になると、「復元テスト」というものをやらされました。英語教育界では「復文」という呼称の方が一般的かもしれません。

教科書の全訳を渡され、それを和文英訳して教科書と一字一句違わない英文を作るのですが、たった1問でも間違えれば、全問を解きなおしさせられるのです。たった1字のスペリングが違っても、1課全部を書き直しです。全問正解するまでは許してもらえません。私には、なかなか辛いテストでした。

しかし、当時の定期考査といったら、教科書を丸暗記しておけばたいてい対応できるようなテストでしたから、これは力技ではありましたが効果的な学習法でした。既に正答できる問題も解きなおすことで、いわゆる overlearning の状態になることが意図されていたのかもしれません。おかげで、学校のテストは楽に得点できるようになりました。

この「復元テスト」は、その後の私の英語学習法を方向づけるものとなりました。そのことは後述しますが、私は今でも生徒に、この「復元テスト」をやらせています。最近の教科書は、私の中学生当時のものと比べるとターゲットの構造がそれほど明確ではないので、やたらめったら反復しても効果は薄いかと思って、全問解きなおしの部分は省いていますが。


3. 高校1年生:壁

そんなこんなでいちおうマジメに勉強し、高校入試を受けることになりました。

ほとんどの同級生は学区内の公立高校か近隣の私立高校を受験するのですが、私はちょっとひねくれているのか、学区の制約なく受験できる専門学科の受験を思い立ちました。

たしか私が受験する2年前までは、大阪府の公立高校では、普通科と専門学科のどちらか一方しか受験できなかったのですが、その縛りがなくなって、専門学科だけ前倒しの日程で受験できることになったのでした。

それで、私は隣の学区にある高校の国際教養科を受験しに行きました。中学3年生のときには英語は得意科目になっていて、ちょっと自信があったんですね。数学が苦手だった私は、どのみち理系に進むことはないだろうと見切って、だったら英語をガンガンに鍛えることのできる国際教養科に進学すれば、その後の道も開けるだろう、という思いがあったわけです。まあ、電車通学に憧れていたってのも、ちょっとありましたが。

でも、受験しに行った会場ではビビりました。なんとも英語の得意そうな顔をした(どんなだ!)女子がわんさかといるのですね。そりゃあまあ、語学系は女子が多いもんですが、ホントに女子が多かったです。なんだか雰囲気だけで圧倒されてしまいました。

いちおうがんばってみたんですが、結果は不合格。競争率7倍超の試験ですから、確率的には落ちる方が普通なのですが、やっぱりショックではありました。自分の英語力では通用しなかったというのも、現実を目の当たりにした思いでした。今でも、この高校に合格していたら、その後の自分がどんな進路を選んだかな、と思うことはあります。

で、結局は学区で、偏差値で言えば上から2番目の普通科に進学することに。どうでもいいですが、この私の母校、現在の大阪府の公立トップ校グループでは、「G9+1」の「+1」みたいな扱いをされている学校で、なかなか微妙です。

偏差値トップの学校は、やはり男子が多く理数系の強い学校だったので、母校はそれに対抗してか、歴史的に女子の人気が高かったこともあってか、文系で勝負する面がありました。それで、「うちは英語に力を入れてます」とアピールしていて、実際、英語の単位数は一般的な普通科よりは1〜2単位多く設定していたようです。

LL教室を本気で運用していて、週に1時間「LL」の授業があったのも、当時としては(大阪の公立の進学校ということを考えれば特に)珍しかったのではないかと思います。

ただ、LL教室でやるのはリスニングの練習で、使う機能もせいぜいアナライザー程度で、ペアリング機能などは使った記憶がありません。他の教室での授業は、「リーダー」「サイドリーダー」「グラマー」などという、当時の教育課程ですら存在していなかったはずの名称の授業で、やり方は文法訳読式一辺倒でした。

大阪の公立進学校といえば、京都大学・大阪大学の入試問題の影響が強いですから、とにかく和訳・英訳だったのですね(今でもその傾向は残っているとも聞きますが。)

ただ、やはり集まってきていた生徒はそれなりの連中で、私はここでも自分の力不足を痛感することになります。

中学時代にそこそこの力は身につけていたつもりだったのですが、高校になると、もうテストで全然点数が取れなくなってしまいました。特に「グラマー」は悲惨なもので、時制だとか否定だとか仮定法だとかいうのが、もう全然わからず、泣きたいくらいでした。

今の私は文法大好きですから、なんであの時、あの程度の文法でつまづいていたのか、まるっきり見当もつかないのですが、とにかくだめでした。

1年生のときには平均点を下回る点数ばかりで、「英語が得意!」などという自信は、木っ端微塵に打ち砕かれたのでした。

数学なんかはもっと悲惨だったもので(この話はまた今度^_^;)、同級生にも「山岡はアホ仲間やしな!」と言われる始末。そんなことは言われたことがなかったものですから内心ショックではありましたが、下位層に位置しているのは事実でしたし、「俺はアホ」というアイデンティティを新たに作って適応するしかありませんでした。


4. 高校2年生:奮闘・復元テスト再び

高校2年生になって、英語の先生が担任のクラスになりました。結婚して子どもさんもいらっしゃいましたが、年齢的にはまだ若い女性の先生でした。某外国語大学出身で英語がペラペラという評判でした。

1年生の時の不甲斐なさには自分自身で嫌気が差していましたし、担任が英語の先生になったことも刺激になったのか、この年は本当に英語の勉強を頑張ったと思います。(実は、当時付き合い始めた同級生の女の子にエエカッコしたかったというのが一番大きいかも…爆)英語でメシを食っている今の自分があるのは、この年の頑張りがあったからに他なりません。

数学・物理・化学のできが悪いのは、ある程度諦めもついたのですが(今思えば、ここで諦めていなければ!というのもありますが)、文系に進むつもりの者にとって英語ができないというのはどうにかしたいと思っていました。

それで、毎回の授業の予習として、教科書の英文を全部自力で和訳するようにしました。英語の成績が良いやつは当然のようにやっていたことなのですが、私にとっては相当手間のかかることで、かなり時間をかけて取り組んでいたように記憶しています。

そして、授業中に先生がおっしゃることは、正しい和訳だけではなく、口頭での説明も出来る限りノートに書き留めるようにして、授業中に学べることは徹底的に吸収するようにしました。

また、定期考査前には、英語の全ての教材について「復元テスト」式の学習を自主的にやりました。授業では和訳が与えられますから、その和訳を英訳し、教科書と全く同一の英文を再生できるようになるまで、何度も何度も繰り返し練習したのです。

高校の教科書ですから中学校の時とは比較にならない負担だったのですが、自分の英語力を高めるのに、これ以上の方法が思いつかなかったもので、ただ無心に覚えました。

ちなみに、この年、サイドリーダーで読んでいたのは、William Saroyan の My Name is Aram 。もう、「こんな単語、いつか使う機会があるのかな?」と思うような難語(高校生にしては、ですけど)もありましたが、そういう文章を復元テスト方式で暗唱・暗写していたおかげで、徐々に「英語の正しい構造」に対する感覚が育っていったように思います。

そうすると、テストでもわりとましな点数が取れるようになり、実力テストにも反映されるようになってきました。

けっきょく、この年の冬の実力テストでは校内偏差値が70を超すようになり、いちおう「英語が得意」と言っても許されるレベルには到達していました。


5. 高校3年生:伊藤和夫とK先生

高校3年生になり、いよいよ受験生です。部活も6月のインターハイ予選で負けて、完全に勉強モードに入りました。

大阪大学の文学部を第1志望にしていました。当時の私の学力で言えば国語と英語は問題なく、センターのみの生物も得意科目だったので心配なし。不安材料としては、世界史がそれほど得意でもなかったので、2次試験の論述問題に耐えうる力を身につけるのと、何よりも徹底的に苦手な数学を、センター試験で不利にならない程度にまでは伸ばさなければならないということでした。

今の私が当時の自分の担任をしていたら、国語と英語の偏差値が模試で少々下がろうとも、とにかく数学の勉強を徹底してやるように助言するでしょう。なにせ、センター試験で全国平均に届かない成績だったわけですから、旧帝大クラスだと他教科で穴埋めするにも大きすぎる穴だったのです。

しかし、当時はそんな個人面談もありませんでしたから、まあ「バランスよく」勉強していたのですね。で、国語と英語は、学校の授業はともかく一般的な教材では食い足りず、やたらと難しい教材を使いたがっていました。

で、たまたま他人からもらって家にあった古い参考書をパラパラとめくってみると難しげな英文が並んでいたものですから、じゃあこれをやってみようと思いたちました。これが運命の出会いでした。何を隠そう、その参考書こそ、故伊藤和夫氏の代表作、

 『英文解釈教室』

でした。

私が生まれて間もないころに出版されたものですから、当時としてもずいぶん古い本だという印象でしたが、巻頭「はしがき」の堂々たる問題提起は鮮烈でした。

訳読中心の学習法を批判することは戦後の流行である。しかし、批判者は新しい学習法として何を打ち出したのであろうか。

訳読法批判の結果、現実にはわれわれは方法以前、つまり、「読書百遍、義おのずから通ず」の域に退行したのではないだろうか。

筆者が本書で試みたのは…(中略)…英語を読む際に具体的には頭はどのように働くのか、また働くべきなのかを解明することである。

そして、練習問題がとにかく難しかったです。なかなか構造が見抜けない英文が多く、少しばかりの自信がへし折られた気がしましたが、解説を読むといちいち納得することばかりで、「そうか、そういうふうに頭を働かせればよいのか!」という発見の連続でした。夏休みの大半をこの参考書に費やしたように記憶しています。

『英文解釈教室』を一通りやり終えると、それまでうやむやにしていた知識が一気に整理され、英語の成績はさらに上昇しました。

それで調子に乗って、学校近くの書店で見つけた、同じく伊藤氏による

 『英文法教室』

にも手を出してみました。これまた「考える英文法」を標榜していて、やり応えじゅうぶん。

受験対策ということだけを考えれば、私は私立大学ははなから受験するつもりがありませんでしたし、センター試験と大阪大学の出題だけを考えれば、『英文法教室』に手を出す必要はなかったと思います。

けれども、『英文解釈教室』と『英文法教室』の2冊をやることで、英語の学習がずいぶんと理論的・科学的なものに見え始め、けっきょくは大学で英語を専門にしようと決心するきっかけを得ることができました。私は大学入学当初から心理言語学には興味があったのですが、それはこの2冊を通じて、専門用語で言えば統語解析(parsing)とでも呼ぶものの入り口に興味を持ったからでした。

さて、学校の授業はというと、相変わらずの訳読式授業でした。

ただ、この年、「リーダー」を教えてくださっていた先生のおかげで、職業の選択肢として「英語の先生もいいかも」という思いを持つようになりました。

その先生はK先生。男性で、おそらく当時40代前半から半ばぐらいではなかったかと推測しますが、口ひげをたくわえ、ラフな服装に革のかばんを持ち、颯爽と歩く姿は、いかにも「英国風」(あくまで当時の私のイメージ)という雰囲気でした。授業でも、他の先生方が『ジーニアス』をお使いだったのに対し、K先生はLDOCEを持ち込まれ、生徒の目の前でひいていらっしゃいました。なんといっても英英辞書など縁遠いものでしたから、「英英辞書を使っている」というだけで、K先生がずいぶんと格好良く見えたものです。

授業で使ったテキストは異文化理解の定番教材 Polite Fictions と、George Orwellによる Shooting an Elephant

K先生の授業は、生徒を指名して音読と和訳を言わせ、構文の解説と模範訳を教えるというスタイルのもので、当時の母校の授業としては一般的なやり方でしたが、ただ一点だけ他の先生方とは違うことがありました。

それは、テキストの内容についてK先生がご自身の意見を積極的におっしゃることでした。

「この筆者は、コミュニケーションはこうあるべきだって言ってるけど、これってアメリカ文化のバイアスがかかってるよね。筆者の流儀を日本に当てはめなければならない理由はないと思うよ」というようなことをおっしゃり、生徒に対しても、「じゃあ、山岡君はどう思う?」と問いかけられました。

当世風に言えば critical reading の素朴な形態といったところでしょうか。

当時、生徒としては、教材に書いてあることを疑うなどということは思いもよらないことでした。たしかに、一読者としては「そうかな?」と思うことはありましたが、授業という場面でそれを表出することはタブーであり、教材は正しいものというふりをするのが、それこそpolite fictionであると思っていました。

ところがK先生は生徒のそんな固定観念をあっさりと打ち崩し、一読者として筆者と対等の立場に立つことを生徒に求められたのです。

これは衝撃的でした。

しかし、いったん「教材(一般化して英文)は疑っても良いんだ」と思うと、どんどん読み方が主体的になりました。自分もK先生のように、英語で書かれた文章を読んで、何か自分なりの意見が言いたい、と思うようになったのです。

そして、今、自分が英語教員となって中学生・高校生に英語を教えていますが、私が自分の授業で実現しようとしていることの根っこには、K先生の授業があります。

昨年、critical thinking 育成を主眼とする授業を他校の先生方に見ていただく機会があったのですが、そのときにある先生から、「あれ、山岡さんが本当にやりたかった授業でしょ」と言っていただきました。なぜかと言ってよくわかりませんが、K先生に影響を受けた自分の素性を理解していただけたような思いがして、嬉しかったです。


6.大学・大学院:運用力より知識

で、そんなこんなで大学に入学しました。センター試験で数学がうまく行かず、得意科目でもコケてしまい、現役にこだわったため、大阪大学は諦めました。(どこの大学に進学したのか、ということですが、まあいちおう伏せておきます。いろいろ要配慮事項がありますもので。)

さて、大学は教育学部の英語専攻。実を言うと、文学部と迷ったのです。最初は中高の教員になるつもりは大してありませんでした。今でもそうなのですが、高校生当時から宗教学に興味があって、そちら方面の研究者になりたいと思っていました。

ただ、センター試験の2日後、あの阪神大震災が起こったのです。私自身は、それほどの被害を受けることはありませんでした。おそらく今の基準で震度5強とかそれくらいの揺れはありましたが、住んでいた集合住宅は、たまたま年末に補強工事をしたばかりで崩れることはありませんでしたし、家の中でも食器が大量に割れたくらいでした。テレビも見ることができたので、「被災者」というよりは、まだ客観的に見ることのできた立場ではないかと思います。

それでも、あの時痛感したのは、「自分は一生懸命受験勉強をしてきたけど、そこで得た知識なんか、こんな非常事態では何の役にも立たない」ということでした。

いや、実際は、いずれ役に立つ知識の基礎になることを勉強していたのですが、当時の自分としては、それまで自分が信じて疑わずに取り組んできた「受験勉強」の限界をまざまざと見せ付けられた思いがしたものです。

それで、宗教学への思いがなくなったわけではありませんでしたが、少しでも人の役に立てる学問を、ということで、やはり興味のあった語学の方面に進むことを決めたのでした。

文学部英文科ではなく教育学部英語専攻にしたのは、単に教員免許が取り易いだろうという、きわめて実利的な発想でしたが、あのとき英文科に進学していたら、また違った道を歩んでいたかもしれません。まあ、とにもかくにも、そうやって、私の英語教育人生への入り口が開かれたのでした。

学部・大学院時代は、英語専攻ということもあり、また、塾や予備校で英語を教えていたこともあり、一般的な大学生よりは英語を勉強する機会は多かったと思います。

しかし、私は、英語を「勉強」することはあまり好きではなくて、「いかにも」な教材を使って勉強することはありませんでした。英検を受けたりもしていましたが、「対策」勉強を始めても、長続きすることは皆無でした。私にとって英語は「使うもの」であって「勉強の対象」ではなかったのでしょう(って言うとカッコ良く聞こえてしまうかもしれませんが、要するに面倒くさがらりなわけです)。

そういうわけで、学生時代の私の英語学習は、ほとんどが大学の授業か、専門書を自分で読むことぐらいでした。英語を専門とするなら、もっとちゃんとやっておくべきだったと反省しています。

とはいえ、文法に関しては別でした。アルバイトで英語を教えるようになって、ウソを教えてはいけない、そして生徒にわかるように説明しなければならないというプレッシャーを感じました。それで、文法書・語法書を、大学の先生に紹介していただいたものや自分で見つけてきたものなど、ひたすら買い集めて読むようになりました。

大学生協で注文書を大量に書き、毎月アルバイト代が入るとすぐに窓口に行ってドカッと届いている本を引き取っていました。当時洋書は高価で、QuirkらのCGELなど3万円近くしたように記憶していますが、もう勢いに任せて買ってしまいました。アルバイトで稼いだ金をアルバイトのために使うという、何やってんだオマエ、みたいな状態でした。

そうやっていろいろ読み漁ったおかげで、文法・語法に関しては、わりと正確な知識が蓄積され、運用面でも自分の英語をモニターする道具として活きるようになりました。今思えば、せっかくなのだから、この時期にちゃんと運用力も伸ばすようなトレーニングをしておけばよかったのですが、そういう「お勉強」的なことには気持ちが向きませんでした。

大学院受験に備えて先輩が催してくださった読書会で、Rod Ellisの The Study of Second Language Acquisition (旧版の紫のやつ)を読んだ経験は強烈でした。

なにせ、分厚い。英語を読むのが遅い私はその量に圧倒されてしまい、一生懸命読んだのですが、SLA研究の内容を学ぶ前に英語を読むことに苦労しました。なんとか読み通しはしましたが、「読んだ」というだけで、吸収できた内容は少なかったと思います。ちなみに、新版の緑のやつも、自宅の本棚で存在感を放っていますが、たまに調べものに使う程度で、通読はしていません…。

大学院では、研究のために洋書や英語の論文を読む機会が増えましたから、否応なしに英語の勉強をしていたことになりますが、ネイティブ・スピーカーの先生とのディスカッションでは、自分の運用力のなさは痛感しっぱなしでした。

それで奮起して勉強すれば良かったのですが、修士論文をご指導いただいた先生から「Xバー理論を勉強してみたら」との助言を受けたのをきっかけに生成統語論にハマってしまって、そっち方面の知識を仕入れることに夢中になってしまいました。

結局、学生を終える時点での英語力は、学部2年で取得した実用英検準1級、TOEFL(当時はPBTのみ)で580点止まり。英検1級は3回受験して3回とも1次試験で不合格でした。いずれも語彙セクションとリスニングセクションの点数が悪く、勉強不足が如実に表れた結果でした。


7.教員:英検1級とホームステイ

それでもまあ、なんとか公立高校の採用試験を通過して、教員になることができました。授業の進め方や生徒指導、部活のことなど、まあ新任らしくいろいろ悩みは尽きませんでしたが、今回はそういう話ではないのでやめておきます。

自分の英語力に関して言えば、さすがに英検で何度も不合格になるのには嫌気がさしていたのと、生徒から「先生、英検何級?」と聞かれたときにカッコつけたいというのがあって、とりあえず英検だけは卒業しようと一念発起しました。

学生時代からとりあえず購読だけして全然聞いていなかった『時事英語研究』(研究社)のCDを片っ端から聞き、シャドウイングや音読をやりました。同じく研究社から、当時新刊で出たばかりの『話すためのリスニング』もやりました。

その甲斐あってか、教員になって2年目の第1回で初めて1次試験を突破。語彙セクションは相変わらずでしたが、リスニングに関しては「あれ?1級のリスニングって、こんなに簡単だったっけ?」と拍子抜けするほどの手ごたえでした。おそらく、『時事英語研究』で「生の」英語をたくさん聞いていたので、ノイズや言いよどみなどのない英検のリスニング音声は聞きやすかったのでしょう。ライティングセクションは満点。論文を英語で書いたりしていたぶんだけ鍛えられていたのかもしれません。

初めての2次試験は緊張してしまい、与えられた準備時間をほとんど使わないままにスピーチに突入してしまいました。ちなみにその時私が選んだトピックは死刑存廃論。これしか意見が思いつかなかったのですが、ネイティブ・スピーカー面接委員とのやりとりでは、しどろもどろになってしまう場面もあって冷や汗ものでした。

ちなみにこの時の日本人面接委員は、お名前は伏せておきますが、私の尊敬する英語教育界の大先生で、これには感激しました。

結果はかろうじて合格。合格ラインを1点上回るだけでしたから、本当にギリギリでした。

1級に合格する前は「1級を持っている人たちって、何でも苦もなく英語でコミュニケーションできるんだろうなあ」と漠然と思っていたのですが、いざ自分が1級に到達してみると、何のことはない、やっぱり英語でのコミュニケーションには苦労するのです。

同じ1級でも、満点近くで合格するような人は違うのでしょうが、ギリギリで合格した私は、相変わらずALTとの会話にも苦労しますし、1級が取れたからといって、自分の英語力が高まっている実感はありませんでした。

しかし、その夏、アメリカのミシガン州に9日間のホームステイをする機会が得られ、私の英語観に変化が生じました。

実は、このときが私の海外初経験。自分の英語がちゃんと現地で通じるのか、内心不安でした。生徒の前ではハッタリかまして英語を教えていましたが、ネイティブ・スピーカーと話すにしても、日本に長期在住している人としか話す機会はありませんでしたから、全然自分の英語力に自信が持てませんでした。

それで、ドキドキしながら渡航したのですが、結論を言えば、杞憂で終わりました。もちろん、コミュニケーションのブレイクダウンは皆無ではありませんでしたが、少なくとも私が出歩いた範囲では、ぎこちなさはあったにせよ問題なく用事を済ませることができましたし、ホスト・ファミリーとも行き違いが生じることはありませんでした(おそらく)。

県の主催する親善事業だったので、市議会に出向いて日本からのお土産(雛人形)の説明をしたり、その地域のホストファミリーが集まった席で、ゲストを代表してお礼のスピーチをしたりという役も(英語教員という立場上仕方なく^_^;)やったのですが、まあ、何とかなっていたように思います。

たかだか9日間のホームステイで、しかもほとんど観光旅行のような行程ですから、仕事で斬った張ったするようなシビアさはありませんが、それでも、いわゆる日常会話のレベルには対応できるということがわかったことは収穫でした。

そうやって、自分の英語が多少は使い物になるということがわかると、それまで感じていた英語との距離感が縮まり、私にとって「第2言語」であるという感覚になってきました。ALTと話すにも、以前は緊張しながら発する言葉を一生懸命に用意していたのですが、とりあえず話しかけて、後は話しながら言葉をつなげてコミュニケーションをなんとか成立させていけばいいや、と思うようになったのです。

で、そういったことでいくらか調子に乗った部分があって、翌年にTOEFL(CBT)を受けてみました。260点(PBT換算で620点)という結果でした。自分なりに目標としていた600点は越すことができたのでホッと一安心ではありましたが、ちょっと自信がついた気がしても、まだその程度という事実は認識せざるをえませんでした。

ちなみに、その後、例の悉皆研修でもTOEFL(PBT)を受けさせられたのですが、似たような得点で、自然には伸びないものだと思いました。

今の職場に来て以降は資格試験を受けていないので、現時点でどのくらいの得点ができるかは見当がつきません。TOEFLのスコアも、もう失効していますから、ちゃんと勉強して受験してみたいと思っています。TOEICは未経験ですが、日本では理解してもらいやすい指標のようなので、これも挑戦してみたいところです。

資格試験のスコアが全てではないとはいえ、わかりやすい目標ではありますので、自分に対する1つの動機づけとして付き合っていこうかとは思っています。


8.現在:洋書とネットと表現辞典

現在の英語学習ですが、相変わらず「お勉強」的なことはほとんどやっていません。教材研究を含め授業で英語を使うのと、主に専門書を読むこと、ネットで英語圏のニュースサイトを見ることぐらいです。後は、教材研究のついでに表現辞典をめくって、日英語の発想の調整を練習することはあります。

もっと集中的に取り組んだ方が効果的なのでしょうが、なかなかその踏ん切りがつかずに、何となくそのままになっているというのが現状です。

精進しなきゃなあ…。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

以上、とても個人的な英語学習歴でした。

書いてみれば長くなるものですね…。


トップページに戻る