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中教審での議論において、次期学習指導要領では「コンテンツ(教材の題材や内容)」を重視する姿勢が打ち出されています。「外国語科の現状と課題、改善の方向性(検討素案)」と題された資料には次のように述べられています。
指導に用いられるコンテンツ(教材の題材や内容)については、外国語学習に対する関心や意欲を高め、外国語で発信しうる内容の充実を図る等の観点を踏まえ、4技能を総合的に育成するための活動に資するものとなるよう改善を図る。
「コンテンツ」とは、多分に人目を引くように持ち出された用語であるように思えますが、教材の内容が生徒の学習意欲に影響を与えうることは、誰しも認めるところだと思います。ですから、この文言自体に対して何らかの批判をしようというのではありません。
ですが、従来も各教科書会社は工夫を凝らして、生徒の興味・関心に合った、あるいは発達段階に応じた「コンテンツ」を教科書に盛り込むよう努力してきたはずであり、「では、今までの何を変えればよいのか、何を加えればよいのか」と考えると、私はちょっと困ってしまいます。現在出版されている教科書では「外国語学習に対する関心や意欲を高め、外国語で発信しうる内容の充実」が図られていない、とは言えないと思うのです。
また、これまでも実力ある教員であれば、教科書に扱われている題材・内容にうまくリンクするような教科書外教材を導入しつつ、巧みに生徒の学習意欲を刺激することをやってきました。教員にとって過重な負担となりがちな、そういった作業を、今度は国のお墨付きを得て、教科書会社が肩代わりしてくれるということでしょうか。たぶん違うでしょう。現在ですら各教科書会社は各種の副教材を準備しており、それらに現場の教員が助けられる場面は多々あります。現在提供されているようなサービスに加えて、教科書本文をうまく活かすようなready-madeの教材を提供するというのは、今度は教科書会社にとって要求が厳しすぎることになります。
また、当然のことですが、ある教材を授業でうまく活かすには、その授業を受ける生徒をよく知っていなければなりません。全国一律に販売される教材で個々の場面に適応するような「コンテンツ」を期待するのは、そもそも無理な相談です。
となれば、一体「コンテンツについては…改善を図る」とは、具体的にはどのようなことを指すのでしょうか。まだ理念的な枠組みが示されただけの段階ですし、これから出てくるであろう議論を注視するべきかと思います。が、専門家の方々あるいは文科省のオフィシャルな見解とは別に、現時点で私が考えていることを述べておくことにします。
それは、「生徒の言語生活経験」を1つの基準として「コンテンツ」を考えるべきではないか、ということです。
中学の教科書と、高校の教科書、特にある程度大学入試までを視野に入れたようなものとを見比べると、使用されている英語の難度が違うのは当然ですが、内容についても質的な違いがあることがわかります。
簡単に言うと、中学1年生では、生徒が日常生活において第一言語(ここでは仮に日本語としておきます)でも言っていることを、「英語ではどのように言うのか?」という内容になっています。教材の英語を読んで初めて知るような情報はほとんどなく、既に自分たちの言語生活に根付いている事柄について、英語という新しいラベルを付け加える作業が主になります。そこから、学習が進むにつれ、徐々に生徒の言語生活から離れた題材・内容が扱われるようになり、ある事柄を「英語を読んで初めて知った」という場面が少しずつ出てきます。しかし、特にそういった性格の強い教材は「読み物」という形で本課とは別立ての扱いをされることも多く、基本的には「日本語でも言っている事柄を英語ではどのように言うのか」という観点の題材・内容が多いといえるでしょう。
それに対して高校の教科書では、題材は生徒の知らない事柄が取り上げられることが多く、また、題材自体は生徒に身近だとしても、そこで述べられる内容は、生徒が第一言語における言語生活で表現する機会はあまりなさそうなことである場合がほとんどです。「日本語で言ったことも聞いたこともないことを英語で知る」と言えるでしょうか。これは、高校生という発達段階を考えれば当然のこととはいえるでしょう。身のまわりの生活空間に安住せず社会的な事柄にも目を向けていくべき時期であり、また、自分になじみのある話でも、それを一段抽象化させて捉える思考力も発達する時期ですから、高校生の知的レベルに耐えうる題材・内容を提供しようとすると、そのようになるのは自然なことです。
ですが、そうすると、高校の教科書を使った授業では、いきおい「読解」が主体にならざるを得ません。生徒の言語生活に根付いていない事柄を扱うわけですから、まずもって教材に「何が書かれているか」を理解しなければ前に進めないからです。しかも、生徒が参照すべき経験を持たないということは、「英語⇔意味」というダイレクトな結びつきが成立しにくく、生徒にとっては「英語⇔日本語⇔意味」のように、第一言語を介在させてからでなければ意味が理解できない場面が多くなってくると考えられます。場合によっては同じ内容を日本語で読んでも何のことか生徒が理解できないことすらあるでしょう。(以前、「空腹感を覚えることと、胃の中が空っぽであることは関係がない」という内容の英文を読んだ時、和訳しても「???」となっている生徒がかなりいました。彼(女)らの身体感覚では到底納得できなかったのでしょう。)
ところが、上に引用した中教審の資料においては、「高等学校については、『英語T』において、文法・訳読が中心となっている」という指摘が「課題」としてなされています。たしかに、classroom
English など、教員の意識の持ち方次第で授業における英語使用を増やすことができるのに、そのことすらなされていないという現状があることは間違いないでしょう。しかし、そもそも本質的に教材に上述のような特徴があるわけですから、日本語の使用に頼ること自体は、ひとり教員の指導技術の拙さによるとばかりは非難できないのです。(もちろん、いわゆる文法・訳読式でなくとも日本語を使用した読解の授業というのは可能ですが、日本語を使用する以上、授業のどこかのフェーズにおいて「訳読」的な要素が含まれるのは避け得ません。)
つまり、新学習指導要領における「コンテンツ」の議論は、必ずそれを指導する「指導法」を含めて考えねばならず、その「指導法」は生徒の言語生活経験による制限を受けるのであり、したがって、コミュニケーション能力を高めるために「コンテンツ」を工夫するというのであれば、それは生徒の言語生活経験を踏まえてでなければならない、というのが私の主張です。
では、生徒の言語生活経験を踏まえて「コンテンツ」を工夫するとは何をすることか、が次の問題となります。
現代において、日本の学校教育を受ける生徒たちにとって、環境問題や国際関係、あるいは自国の政治課題などについて英語で意見を述べることができるようになるのは大切なことでしょう。しかし、そのような題材を扱った教材では上述の通り「読解」にエネルギーを割かざるを得ず、「4技能を総合的に育成する」という指導要領の理念とはかけ離れることは必至です。また、そのような教材だと、書かれている内容を理解することと、その内容を表現するために用いられている言語要素の両方を同時に学習しなければならないという点で、生徒にとって負担が大きくなりがちだという問題点もあります。
内容理解と言語要素の習得という2つの側面のうち、言語要素に関しては、「これだけ身につけなければコミュニケーションができない」という意味で学習すべき量が、ある程度までは定まっています。したがって、負担を軽減するには、内容理解にかかる負荷を下げることが主体となります。
内容理解の負荷を下げる方法として、私が思いつくのは、次の3つです。
(1) 生徒の日常生活に即した題材・内容を扱うことで、生徒の言語生活経験から、教材の英語が理解できるようにする
(2) 生徒が他教科で学習した内容を英語でも取り上げることで、生徒の言語生活経験から、教材の英語が理解できるようにする
(3) 「和訳先渡し」などにより、生徒の言語生活経験に欠けている部分を第一言語で補うことで、教材の英語が理解できるようにする
まず(1)です。
いちばんわかりやすいのは、学校生活に即した話題を取り上げることでしょう。朝の通学から、登校した後の友人との会話、授業中の先生とのやりとり、学校行事、学校生活の意義など、間違いなく生徒集団が共有している話題ですから、かなり生徒が自身の言語生活経験を参照することができます。というと、あまり面白みのない内容になってしまいそうに思えますが、たとえば、生徒が服装指導のことで先生に口答えする場面であるとか、学校行事について友人と口論する場面、恋愛にかかわる異性とのやりとりなど、これまではほとんど取り上げられなかったようなコミュニケーションでも、実際の学校生活では頻繁に生じそうなものであれば、教材化の可能性がおおいにあると思うのです。
自分の普段の生活について何かを述べるというのは、コミュニケーションのニーズとしては決して低くないはずで、自身の言語生活経験を参照しつつ、「じゃあ、同じことを英語ではどう言えばよいのか」という方向性で学習が進めやすくなります。とすると、これまで「読解」主体の授業における、最終的に生徒の頭に残るのは日本語ばかり、という欠点を正し、きちんと英語が残るようになっていくことでしょう。
次に、(2)です。
これは、古くはWiddowson (1978) などが主張しているところです。
Another advantage I would wish to claim for the subject-oriented approach
I have suggested relates to this point about transfer from the learner's
own experience.(18)
教科の学習内容は、(1) と同じく生徒集団が共有しているものです。よりアカデミックになるということと、より価値観が入り込みにくくなるという点で、学校生活に即した題材とは違った性質を持ちます。情報を正確に取り出したり伝えたりする言語使用が要求されることが多くなると思いますが、それでも既に他教科で学習した内容であるので、まったく初めて知る事柄について情報伝達をするよりも負荷は下がります。そのことにより、(1)
で述べたのと同様に、内容よりも、それを英語ではどのように表現すればよいのか、にフォーカスが当てやすくなりますので、やはり生徒の頭に英語が残るという効果が期待できます。
蛇足ですが、Widdowsonは、このようなアプローチをとる利点として、生徒は自身の経験を参照し、対象言語で述べられていることに対応する第一言語の表現を探すことで、対象言語の学習を促進することができると述べています。この場合の「訳」は、word
for word、 sentence for sentenceの逐語的な第一言語との置き換え、すなわち「usageとしての訳」ではなく、生徒の言語生活経験に根ざした「useとしての訳」であり、「訳」批判には当たらない、との立場を示しています。
最後に(3)です。
そうは言っても、英語の授業で扱う教材の題材・内容を、常に生徒が自身の言語生活経験を参照できるものにしようとするのは至難の技です。どうしても、英語の教材を通じて初めて知る題材・内容は出てきますし、実際の言語使用としてもそういった場面は多々あるわけです。そのような場合は、従来どおりに、まず「内容理解」にエネルギーを注ぐ必要が出てきます。教材の性質が、生徒の言語生活経験から遠いものである以上、これは仕方のないことです。
しかし、それでもあえてそういった「コンテンツ」を扱い、なおかつ「読解」に偏らない授業をしなければならないという状況であれば、1つの解決策が「和訳先渡し」でしょう。和訳先渡し方式を採用することで、たとえ英文に書かれている事柄について生徒が自身の言語生活経験を参照することができなかったとしても、その教材を理解するのに必要な言語生活経験を和訳という形で、その場で(無理やり)与えてしまうことができます。和訳は、参照すべき言語生活経験としては貧弱なものでしょうが、何も参照するものがなく新奇な内容について理解を迫るよりは、はるかに生徒の負担は軽減されます。
「和訳先渡し」自体は、教材の作り方というよりは授業のやり方の問題です。しかし、読解偏重を正し、4技能を総合的に育成するために「コンテンツ」を工夫するというなら、和訳を渡してでも生徒に読ませる価値がある「コンテンツ」を提供すべきだと思います。
以上、「コンテンツ」について、現時点での私の思いつくままを述べてみました。
私自身、生徒のリアリティに即した教材を用意することがなかなかできず、苦労していますので、「じゃあ、オマエの持ちネタを見せてみろよ」と言われると、とても困るのです。ですが、「環境問題」「異文化理解」「時事問題」などといった既成のありがちな枠組みにとらわれていては、新指導要領が求める「4技能を総合的に育成するための活動に資する」ような「コンテンツ」は生まれてこないとも思うのです。
ということで、新指導要領の理念を教材に具現化していくためには、上述のような観点を含めて考えてみるのも悪くないのではないでしょうか、私も考えてみますから、という、雑駁な提案をさせていただきました。
[引用文献]
Widdowson, H.G. (1978) Teaching Language as Communication. Oxford University Press.
中央教育審議会初等中等教育分科会での資料(文科省サイト内)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/015/07100309/002.htm
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