2008.8.25. 英語教師の発達段階


最初にお断りしておきますが、たいへんまとまりの悪い文章です。
だいぶん苦しんで書いたのですが、きれいにはまとまりませんでした。
とりあえず、言いたいことは言った、という段階で掲載しておくことにします。

結論としては

・英語教師が授業を作る力には、発達段階を想定することができるのではないか
・発達段階を想定することで、教員養成や現職教員研修の中で、英語教師のよくやるつまづきに、よりよく対処する道筋が見えるのではないか

という2点を提案する、ということになります。

下の文章は、高校「リーディング」の、ある検定教科書からの抜粋です。

After the war, Miep gave Anne's diary to Otto. In time, he decided to publish it. He hoped that others could learn how lively and kindhearted his young daughter had been.
Many years later, Miep herself wrote a book, which she called Anne Frank Remembered. In it she wrote, "I am not a hero ... I was only willing to do what was asked of me and what seemed necessary at the time." But to people who know the story, Miep Gies is a hero. She is a woman of remarkable courage and strong will. She will always be remembered as a little light during some of history's darkest days.
(第一学習社 Voyager Reading Course Lesson 13 Miep Giesより)

この教材は、アンネ・フランクの一家がナチスの迫害を逃れて身を隠すのを、計画段階から最後まで手助けしたMiep Giesという人物についての伝記で、上の引用は、教材の最後の部分です。これを使って授業をするとします。どのような授業が考えられるでしょうか?

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(1) 文章を構成する個々の要素を理解することに主眼を置く授業
たとえば、in timeといった熟語やhow lively…had beenの感嘆文の構文、a woman of remarkable courage and strong willにおけるofの用法などに着目し、これら個々の項目について生徒に理解してほしいと考えたとします。

この場合、授業において優先すべきは、それら個々の項目を生徒に理解させることであり、文章として書かれている内容の理解は、個々の項目の理解の総和として立ち表れてくるものと考えられるでしょう。いわゆるbottom-up的な発想です。

具体的な教材例としては、たとえばこのようなものが考えられます。基本的な方針としては、部分の理解を積み重ねていくことが、この文章全体を理解することに等しい、というスタンスです。

後述するように、この教材をどのように扱うかについてはバリエーションが考えられます。このようなプリントを生徒に配布する場合、授業前に予習させてきて、授業では答えあわせをしていく、というやり方もあるだろうし、授業の場で生徒に取り組ませる時間を割くやり方もあるでしょう。生徒に取り組ませるのにも、個人個人で取り組ませることもできれば、ペア・トリオやグループで協力して答えを出させていくこともできます。あるいは、プリントではなくて教師が口頭でこれらの発問をしていく展開も可能でしょう。

しかし、そういったhow to teachの面ではさまざまなやり方が考えられるにせよ、what to teachについては、いずれも個々の項目の理解を重視するという点は変わりません。


(2) 文章を「練習材料」とした「トレーニング」に主眼を置く授業
対照的に、個々の項目の理解はさておき、教材の英語を、種々のトレーニングを通じて、英語習得に役立つ "intake" として学習者に内在化させようとする授業が考えられます。

たとえば、最近ポピュラーな教材としては、このようなものを作ることができるでしょう。
これを使って、たとえば音読、音読筆写、視写、ディクテーション、暗唱・暗写、オーラル・リプロダクションなどの練習を徹底して行うわけです。

これまたhowの面では、個人で行なったりペアで行なったり、プリントを使ったり使わなかったり、というバリエーションが考えられますが、whatの面としては、ともかく教材の英語こそが学習すべき内容であり、それを内在化させることが主眼であることに変わりはありません。

こういった授業においては、文章を構成する個々の項目については、取り立てて説明することも当然ありうるでしょうが、基本方針としては、練習を行う中で自然とそれが身についていくことを期待するということになります。

また、文章全体の理解については、内容面では、有り体に言ってしまえば、「どうでもよい」場合が多いと思います。つまり、こういった授業のやり方は書かれている内容にまったく左右されませんし(オーラル・インタープリテーションのレベルまで到達するなら別ですが)、練習の内容も結局はセンテンス以下のレベルで行なわれるわけですから、文章全体がどのようであるかは関係がありません。

そういうわけですから、文章構成などの言語面についても扱う余地はないといえます。もちろん、このタイプの授業に他のタイプの要素を組み合わせて文章レベルの内容を扱うことはできますが、そのことについては後述します。


(3) 情報の流れや文章の構成などのマクロな要素を理解することに主眼を置く授業
いわゆるパラグラフ・リーディングと呼ばれる手法を扱う授業などがこれにあたります。文章を文章として扱う点が前述の2つのタイプとは異なります。

たとえば、このように教材化することが考えられるでしょう。
授業の進め方については、(1)と同様にさまざまなバリエーションが考えられるでしょう。ただ、発問に対する解答の自由度が上がるため、一斉講義式というよりは、生徒同士で話し合わせたり、異なる意見を拾い上げて比較検討するような局面を取り入れることが、自然と含まれやすくなるかと思われます。


(4) 教材の言語的特徴に着目して自由表現につなげることに主眼を置いた授業
(1)(3)タイプの授業が、教材の英語を理解することに重きを置き、(2)タイプの授業が、教材の英語を内在化させることに重きを置いていると考えるならば、この(4)タイプの授業は、(2)に近いものと言えます。

たとえば、文章中に

She is a woman of remarkable courage and strong will.

という1文がありますが、このofの用法に習熟することを目標とするとします。辞書の用例を見る、あるいはノートに書き写すなどの準備を経て、たとえば、次のような型にはめて生徒に自由表現を求めることができます。

型: (人名) is a man / woman of (その人の性質・特徴), because (そう判断する理由).
作文例: Murata is a man of courage , because he can touch a cockroach.

あるいは、センテンスを超えたレベルでは、

He decided to publish it. He hoped that others could learn how lively and kindhearted his young daughter had been.

の部分を取り出して、

型:Yesterday, I (自分の取った行動). (その行動の理由).
作文例:Yesterday, I went to a pet shop near my house. I thought I could see some cute puppies there.

のようなことです。
1番目の例では、性質・特徴を表すofの用法を、2番目の例では、接続表現を使うのではなく、センテンスを並べるだけで論理関係を表すやり方を、それぞれ形式は指定したうえで、内容を生徒が自由に考える形で練習しようというわけです。

実際の言語使用としては、表現形式が指定される場面というのはそれほど多くはありませんが、表現内容について生徒の自由な発想が許されることから、実際的なコミュニケーションを志向した(=コミュニカティブな)要素が少し強く出てきていると言えるでしょう。


(5) 教材の内容について理解する過程のコミュニケーションに主眼を置いた授業
少し持って回った言い方の項目名ですが、一般的に「コミュニカティブなリーディング授業」と言った時に、わりとよくあるタイプの授業を思い浮かべていただければよいと思います。

すなわち、

・教材に書かれている内容を、日本語の助けを借りるのではなく、視覚情報や、平易な英語表現へのパラフレーズなどを通じて理解しようとする
・その過程を英語で行なう、つまり、いわゆる「オール・イングリッシュ」の授業として進める

といった特徴を持つ授業です。
「訳読式リーディング授業からの脱却」というと、こういった授業が1つのモデルとして示されることがありますが、このタイプの授業が何を目標とするかについては、少し考えておかねばならないかもしれません。

見た目にはリーディングの授業ですから、教材の内容を理解することが目標と言えそうなものですが、その場合、「日本語の助けを借りた方が内容理解のためには効率がよいのではないか」あるいは、「パラフレーズした英語は生徒にどうやって理解されているのか」といった批判・疑義がこれまでにも出されてきています。

しかし、コミュニカティブなリーディング授業というときの「コミュニカティブな」というのは、単に見た目にコミュニケーション活動をやっているということではなくて、授業過程そのものがコミュニケーションになっているということである、とする考え方があります。

この考え方に立てば、このタイプの授業は、リーディングの授業というよりは、「リーディング教材を用いて、授業参加者が英語でコミュニケーションをする授業」と意味づけられるように思います。したがって、教材の内容をいかに効率よく生徒に理解させるか、ということではなくて、その教材を用いてどのようなコミュニケーションができるか、ということが、この授業を考えるうえで必要なことでしょう。


(6) 教材の内容についてクリティカルに吟味することに主眼を置いた授業
(1)〜(5)で挙げた授業は、どれも所与の教材を完成されたものとみなし、それを正確に理解するなり、正確に内在化させるなり、といったことを目標にするものでした。

しかし、そうではなくて、書かれている内容について「本当にそれでよいか?」と問うてみたり、表現の形式について「もっと良い表現法はないか?」と検討してみたりすることも可能です。いわゆる「批判思考」「クリティカル・シンキング」の実践です。

たとえば、

I was only willing to do what was asked of me and what seemed necessary at the time.

という文がありますが、なぜI was (only) willing to do…という表現が選ばれているのか、I was ready to do…やI wanted to do…ではだめなのか、といったことを検討してみることが考えられます。


(7) 教材の内容を自分自身に引き付け、人間的な成長を促すことに主眼を置いた授業
一部の優れた英語教師がやって見せていることですが、教材の内容を深く掘り下げ、それを生徒が自分自身に関連付けて考えることで、生徒自身のうちに考えたい・伝えたい内容を生み出し、それをコミュニケートするような授業があります。極端な話、英語の授業というよりは、道徳を英語でやっているような授業のことです。

私自身にはこのタイプの授業ができる力量がまるでないので貧弱な想像力しか働きませんが、たとえば、文章中の "hero" という語に着目し、「自分にとってのheroとは何か」「自分自身がheroであるために必要なことは何か」といったようなことを生徒に考えさせていく授業がありうるかと思います。

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以上、1つの教材例からどのような授業が可能かを、きわめて大雑把に例示してきました。ここまでお読みになった方はもうお気づきのことでしょうが、上に挙げた(1)〜(7)のタイプは、どれも単独で行なわれることは少なく、ほとんどの場合は組み合わされて、1つの授業なり一定期間におよぶ授業シリーズが構成されるものです。

また、基本的な方向性としては同じタイプに属する授業でも、具体的なやり方次第で、ずいぶんと違った授業が構成されるものです。

たとえば、(1)のタイプの授業でも、一斉型で行なうとして、教師がひたすら説明する講義型も可能だし、生徒とやり取りしながら答えを引き出していくやりかたも可能です。また、ペアやグループで考えさせるやり方もあるだろうし、部分的に答えやヒントをを与えることで、生徒が自力で答えを導き出すまでの負荷をコントロールすることもできます。教えたい個別の項目を、教材の文章の中で出てきた順に扱うこともできれば、教えたい項目だけを先に取り出して集中的に扱っておいて、教材の文章を扱う段階では、それらの項目は既習のものとして授業を進めることもできます。逆に、教材を生徒が個人やペア・グループで読みながら、各々がぶつかった困難点を互いに出し合って、自分たちで解決できるところは解決させてみるような、自由度の高い協働学習をすることも考えられるでしょう。

あるいは、和訳先渡し方式が主張するように、(2)のような機械的なやり方で、教材の表層的な意味内容の理解までは手早く済ませておいて、その上で(6)や(7)のような、より「深い」ことがらに時間を割く、ということも、授業の構想としてはごく普通にあることです。

さて、ここまでの文章をお読みになって、「なるほど、そういう授業のやり方もあるな」とか、「ああ、あの先生の授業はすごいと思ったけど、この分類ではこのタイプなんだな」などと思ってくださる方もいらっしゃることでしょうが、一方で、「なんだか雑な話だな、もっと緻密に考えないと」とか、「ああ、この文章を書いているヤツはこの程度なんだな」などと思われる方もいらっしゃることでしょう。

たとえば、上に挙げた(1)〜(7)の例示では、「理解」を重視する授業と「発信」を重視する授業が混在しています。また、そもそもある教材を使った授業を考えるときに、どのような生徒に対して、どのような条件で授業をするのか、という諸々の要因がある程度明確でないと、授業の目標も、その目標を達成するための手段も定まってきません。

そういったことを考えると、例示のような授業の類型化はとても乱暴なものだし、乱暴な類型化をベースにした議論に、実りは少ないのではないかとも思われます。

しかし、そういった「雑な」文章の書き方をここまでしてきたのには、私なりのわけがあります。それこそが、標題の「英語教師の発達段階」に関わってくるものです。

上の例示は、(1)から(7)に向かって、教師にとって授業の難度が上がっていくもの、つまり、授業を行なう準備に手間がよりかかるもの、経験がより必要となるもの、となっているとは見られないでしょうか。

(1)タイプの授業は、準備は簡単です。教える内容は「知識の切り売り」で済む場合が多く、よほど高学力の生徒を教えるのでなければ、教師は自身の学習経験から、教えるべき内容を導き出すことが容易にできます。また、学校の教科書であれば教師用のマニュアルが整備されていますから、自身の経験に頼らずとも、マニュアルに書かれていることをそのまま教えれば、少なくとも間違ったことを生徒に教える危険性はありません。

もちろん、このタイプの授業は往々にして単調になりがちで、生徒の学習意欲を喚起しにくいという面があり、それについては、話し方を工夫するとか、教材の提示の仕方を工夫するとか、生徒の活動の形態を工夫するとか、つまり、howの部分に工夫の余地が多いといえます。しかし、生徒がそれほど反抗的でない限り、そして授業の成果を度外視する限り、このタイプの授業はいちおう成立させることは容易です(生徒の多くが指導内容を十分に理解していなくても、教師の説明などをノートに一生懸命書きとめてさえいれば、いちおう何となく授業が成立したとみなしてよさそうな雰囲気になる)。

ところが(2)では、まさにそのhowの部分が授業を成立させる根幹です。教える内容については、(1)と同様に、それほどの専門的な知識を必要としません。しかし、生徒が指示したとおりの活動を行ってくれなければ、この授業は見た目からして成立しないわけですから、そういう点では(1)よりは若干難度の高い授業と言えるでしょう。

(3)では、文章を文章として扱うための言語学的知識、たとえばテクストタイプについての知識であるとか、ディスコースについての知識、センテンス間での情報のつなぎ方等の情報構造についての知識などが教師の側になければ、生徒をそこに導くことはできません。つまり、切り売りできる知識を、それなりの専門的な勉強をして身につけておかねばならない、という点で、授業の準備にかかる手間や経験が、より多く求められるといえます。

さらに、(1)〜(5)タイプは、授業で扱う内容が、教材の内部に留まっていますが、(6)(7)では、教材の外部を参照することが必須となります。

と、このように考えると、大雑把に言って、(1)から(7)の順で授業の難度が上がるといえるでしょう。

また、この順序は、私自身の授業がたどってきた道とも、おおよそ重なるものです。正確に言えば、(1)→(3)→(2)→(4)→(5)とやってきて、(6)や(7)には、散発的にしか踏み込めていないという段階です。そして、これは私の推測ですが、多くの英語教師も、私と似たような過程を経て、授業が変容していっているのではないでしょうか。

よく言われることに、「自分が教えられたように教えるのが一番やりやすい」ということがあります。

高校英語教育の実態として(1)タイプの授業は今でも多いと思います。とすると、そういった授業を受けてきた人が教える側にまわったとき、英語教育の専門的トレーニングを受けていなければ、おそらく(1)タイプを再生産することになるのが自然でしょう。

また、教育学部等できちんと学んだ人でも、当初こそ「オール・イングリッシュでコミュニカティブな授業を!」と意気込んで(5)以降のタイプに挑戦するものの、挫折、例えば定期テストで自分の担当クラスの平均点が低いとか、そういうことをきっかけにして(1)に戻り、そこから再出発するというのは、よく聞く話です。

そして、これほどに英語教育の研究が(少なくとも一部では)高度化し、優れた実践が豊富にメディアで流通している時代に、若手教師が昔とさほど変わらない授業をしていることも少なくないでしょう。

こういったことから、私は次のことを提案してみます。
i) 英語教師の授業づくりには、いくつかの「発達段階」を想定することができるのではないか
ii) その「発達段階」は、その教師が、授業におけるwhat to teachをどのように捉えているかによって特徴づけられるのではないか

英語教師の授業づくりに限らず、人間の技能習得や職業的発達は、大なり小なり連続的な過程であるものですが、便宜的にでも段階性を考えたほうが、主に教員養成・現職教員研修において、いくつか都合の良いことが出てくるのではないでしょうか。

たとえば、教育実習生がよくやることですが、大学で教えられたことに忠実に、「オール・イングリッシュで生徒主体の授業をしよう!」と試みるものの、自分の指示や発問に生徒がうまく反応してくれず、授業の流れが停滞してしまって消化不良に終わる、ということがあります。

こういった場合に多い原因としては、howの部分では「オール・イングリッシュで」とか「ペア・ワークを使って」とか「生徒に意見を発表させて」といった、(5)以降のタイプによく見られる手法を思い描きながら、実際に教えようとしている内容、つまりwhatの部分は(1)のタイプを想定していることが挙げられます。

別の言い方をすれば、発達段階としては(1)の段階にあるのに、授業の見た目だけ、より高次の段階らしくしようとしたことによる、whatとhowの不釣合いからくる失敗、ということです。

また、上で述べたように、whatの部分は同じでも、howにはバリエーションが考えられることはよくあります。たとえば、経験の浅い教師が同じ勤務先の先輩教師の授業を見て「うまいなあ」と思う場合、その先輩の授業が、whatの部分は自分と同じ(1)の段階に留まっていても、howの部分で自分よりも工夫がなされていることにより、授業の進み方としてはスムーズに流れている、という場合がよくあります。

そのような場合、たしかにhowの部分については謙虚に学び取ればよいのですが、同時に、whatの部分については、先輩教師も自分と同じ段階に留まっているのかもしれない、という可能性を覚えておく方が良いと思います(もちろん、意図的にそのwhatを選んでいるという可能性もあります)。

というのは、そうしないと、自身の成長が、結局その先輩の到達地点までに限定されてしまいかねないからです。たしかに現時点ではその先輩の方が自分よりも良い授業をしているのだろうけれども、その先輩とて完成した教師というわけではないので、改善の余地があるはずなのです。

しかし、いかにバリエーションがあるといえども、howの改善だけで自分の授業づくりが成長するには限界があります。やはり、whatの吟味があって初めて、授業力を1つ上の段階に上げることができるのだと思います。

他人の授業を見て、そこから学ぶとき、自分がwhatに関してどのような考えを持っているのかを自覚していないと、表面上わかりやすいhowを、体裁だけ真似することに終始し、それが自分なりのwhatにそぐわなければ効果が薄く終わってしまうことになりかねません。というより、そうなることが多いです。ですから、そういう意味で、自分の授業づくりが、whatに関してはどの発達段階にあるのだろうか、という意識を持っておくことは決定的に重要なのです。

そして、教員養成や現職研修の場で指導する立場の人にも、発達段階に関する配慮が求められると思います。多くの場合、指導助言者などの立場になる人は、授業者よりも高い授業力を持っているとされる人であるでしょう。

そうした場合、指導する側が、例えば(7)の段階にまで授業力が高まっているとして、(3)の段階にいる授業者に対して、安易に(7)のレベルのことを要求しても、そのことを理解してもらえないばかりか、悪くすると、表面上のhowにだけ授業者の注意が向けられて、whatとhowの不一致が生じる危険性もあります。

いくら優れた英語教師が高次元の授業をしているからといって、それをもって他の英語教師を啓蒙していこうというのは、安易にやってしまうと、結局、「あの人だからできるんだ、あの学校だからできるんだ」という自我防衛反応を引き出して終わる可能性が高いと思います。

生徒の英語力が一定の段階を踏みながら伸びていくのと全く同様に、英語教師の授業力も一定の段階を踏みながら伸びていくものではないでしょうか。そう考えると、充分なケアをしないままトップクラスの英語教師の授業をモデルとして研修することや、howだけが焦点化されがちな形でワークショップや実践発表をすることは、避けたほうが良いと思うのです。

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