2003.5.20. 「わかる」と「できる」の狭間で
| 「「良い授業」と「わかりやすい授業」」に関連して、追記のような話題です。 深夜の職員室で(笑)、教頭先生と「授業の巧拙」という話題で話し込んだとき、こんな話になりました。 「我々はどうしても生徒が「できる」ようになることを求めてしまうけど、生徒は案外「わかる」の方に満足感を覚えることの方が多いんだよね。問題をきちっと解ける力もつけてやりたいけど、その前に「わかった!」という思いを味わわせてやることがけっこう大事で、教員としてはジレンマだよね。」 この教頭先生は数学の先生なのですが、やはり、数学でも問題が解ける力を育てることが目標であっても、その前に「わかった」と思わせることが大事だということなのだそうです。それで私も、英語科でも同じようなことがありますという話をして、結局「難しいよねえ・・・(苦笑)」というところで話が落ち着いたわけですが、技能習得が第一義的な価値を持つ英語授業の場合、このジレンマはかなり大きな意味を持っていて、無視できない問題だと私は感じました。 下の記事で書いたこととも関連するのですが、生徒が学校の英語授業に何を要求しているのかという問題があるのでしょう。「学校の英語教育を受けたって、ちっともしゃべれるようになりゃしない」という批判を展開する人は数多くいますが、果たしてそういった人たちは中学生・高校生の時に、学校の授業で英語が使えるようになることを求めていたでしょうか。おそらく多くの場合はそんなことはないと思います。英語は他の座学の教科と同じく「理解」する教科であり、「使用」という発想はおそらく生徒の方には薄いと思われます。 生徒がある英語教員を評価する際に「あの先生の授業わかりやすいよ〜」とは言うけれども、「あの先生の授業、力つくよ〜」とはあまり言わないことにもそれは表れていると思われます。1年なり3年なりを通じて自分の英語運用力を高めてくれることよりも、1回1回の授業がどれだけ明快であるか、の方が彼(女)らにとっては大事な観点であるのです。 それで、生徒が「わかりにくい」という授業が、実は「細部にこだわらず、文章の大意を把握する実践的リーディング力」を意図した授業だったりして・・・という事態が生じるわけです(このような事例は、私個人の見聞の中でですが、実際にあります)。 「1回1回の授業が生徒にとって多少わかりにくくても、最終的に力がつけばそれでいいじゃないか」という考え方もあるかもしれませんが、それは「わかりにくい」授業をする先生に教わって学習意欲が刺激される生徒に恵まれた場合のみです。たいていは、「あの先生わからん」とそっぽを向かれ、学習成果など期待できようもない状態に陥ってしまうでしょう。 ということで、最後は下に述べた結論に行き着くわけですが、英語指導・学習における「わかる」と「できる」の関係は、もっと追究されてよいトピックであるように思います。 |