2000.9.25. 「時制の一致」廃止論

学校文法で必ずといって良いほど触れられる項目の1つにいわゆる「時制の一致」という現象があります。英語では"backshift"というような用語で呼ばれることもあるようです。これは、たとえば次のように、主節の動詞が過去形(過去時制)である場合、従属節の動詞も、その動詞自身が指示する時(現実の時間)とは無関係に過去形あるいは過去完了形になる現象を意味します。

The trousers didn't fit him because he was overweight.

この文では、従属節の意味内容「彼は太っている(た)」は、ズボンを履こうとした過去時だけでなく、発話時に該当する事実であってもかまいません。発話時においても彼が太っている場合にも上の英文は使えます。

ここで何が起こっているかというと、"be"が"didn't fit"という過去形に引きずられて、時間関係は無視して「惰性で」過去形になっています。つまり、事実の成立時と言語における時制にギャップが生じるわけです。

このように、従属節の動詞が現実の時間を時制としてあえて反映させずに、主節の動詞の時制と「惰性で」シンクロする現象が「時制の一致」と呼ばれます。この現象は、文法規則が自律的に機能しているものではなく、その使用者たる発話者の主観的意識から影響を受けうるものであることを示すよい例であるといえます。

その意味で、この現象は充分に言語学的興味の対象たりえるでしょうし、実際に多くの文法書がこの現象を扱っています。たとえばデクラーク(1994)は、「時制の一致」を含めた時制の問題を、かなり丁寧に分析しています。(ちなみに、このような現象を引き合いに出して、「ほら、チョムスキーの言う統語の自律性なんてウソじゃん」と言っているのを読んだことがありますが、もちろんチョムさんの言う「自律性」ってのは意味が違いますヨ。)

ところが、この現象を1つの「規則」として英語学習者に提示するとなると、コトはそう簡単ではないように思います。これは私の主観による判断で、ひょっとすると誤りであるかもしれないのですが、「時制の一致」という用語があまりに「わかりやすい」ので、逆に学習者に混乱を引き起こしてしまっている現状があるように思います。

上で述べたように、「時制の一致」というのは、主節と従属節を持った文において、主節の動詞が過去形である場合に生じる現象なのでした。したがって、たとえば次のような用例の対比は「時制の一致」の説明として適切です。

(a-1) He knows that she is a college student who has been studying the subject for three years.

(a-2) He knew that she was a college student who had been studying the subject for three years.

仮に(a-2)の文が、ほんの数分前のできごとを指して発せられた場合、つまり、彼女が大学生であることやそのテーマを3年間勉強してきたことが発話時においても成立している場合でも、that節内の動詞は主節の"knew"にひきずられて「時制の一致」を起こしています。

いっぽう、次のような対比は「時制の一致」ではなくて、英文法規則からの逸脱とみなされます。

(b-1) John playsthe piano pretty well, and surely he will become a professional pianist.

(b-2) John is playing the piano pretty well, and surely he is becoming a professional pianist.

(b-2)では、2つの節は主節と従属節ではなくて、等位節の関係にあります。また、動詞の時制も過去形ではなくて現在進行形(厳密には現在時制の進行相)です。したがって、ここでは「時制の一致」現象は起きないわけです。

ところが、大学受験生などの英作文を見ていると、時々このような文にお目にかかります。なぜこのような時制を用いたのかを尋ねてみると、「だって『じせーのいっち』をさせなきゃならないんでしょ?」という答えがかえってきたりします。ようするに「一致」の意味を取り違えてしまい、なんでもかんでも動詞の時制は合わせないといけない、と誤解してしまった例だといえます。

さて、それでは「時制の一致」は、英語学習においてどれほどの重要性を持つ項目なのでしょうか。あくまで私見ですが、理解(認識)のレベルにおいてはそれなりに重要かな、と思います。現実世界と言語表現にはギャップがありうるという、言語というものの性質を知っておくことには言語教育として価値があるように思うからです。少なくとも、表面上の時制が現実の時間を反映していない場合があるということを知っておく意義はあるでしょう。

ですが、産出レベルにおいては、それほど優先順位の高い項目であるとは思えません。というのは、たしかにネイティブ・スピーカーの言語直観では、従属節の動詞を「惰性で」主節にシンクロさせるほうが自然であるのでしょうが、だからといって時制を動かさなくても、最低限度の知的意味は充分に伝達可能であるからです。たとえば、

(c-1) He w asn't allowed to be a Sumo wrestler since he wastoo short.

(c-2) He wasn't allowed to be a Sumo wrestler since he is too short.

においては、(c-1)のほうがより自然な英語ではあるでしょう。しかし、彼の身長が「新弟子検査」以来それほど変化していないのであれば、(c-2)も意味内容としては合っています。従属節で現在時制を用いることによる言外の付加的意味まで伝達されてしまうのは仕方のないこととして、とりあえず知的意味は(c-1)(c-2)ともに同じです。

むろん、ネイティブに近い英語が使えること自体は望ましいことでしょうが、一外国(語)人としては通常の時制規則どおりに(c-2)が使えれば、とりあえずそれでよいといえます。「時制の一致」という用語を不用意に持ち出すことで引き起こされる混乱と比較すれば、むしろ「時制の一致」を持ち出さない方が害は少ないと思われます。

ということで、いわゆる「時制の一致」というものは、あんまり必死になって教える必要がないのではないか、と私は考えています。だから、「時制」を教えるときに、必ずしも「時制の一致」に言及しなくてもよいのではないかと思います。それほどのプライオリティはないように思われるからです。ましてやこの現象を高校レベルのテストでひんぱんに出題するようなことにも積極的意義があるとは思えません。少なくとも「時制の一致」という用語だけでも変更することを考えるべきです。

来るべき時代に合わせて学習内容を削減するという流れで考えるなら、語彙量を減らすとかいうことよりも、学習文法のリストラをもっと検討すべきではないかと思います。コミュニケーションにどうしても必要だ、というわけでもない文法・語法項目は、その優先順位をずっと下げてしまってもよいように思うのですが。どんなものでしょうか。



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