2005.12.4. 英語教育における「理論と実践の乖離」とはいったい何なのか
先日ある講演の中で、「生態学的学習者観という新しい考え方が、最近になって出てきています」というような発言がありました。講演の本題とはあまり関係のない部分のことでしたが、耳慣れない言葉だったので、いったいどういうことだろうかと気になったのですが、講演者は「学習者は外国語を習得するだけのマシーンではなくて、それぞれに個別特殊な背景を持った存在である」という趣旨の説明をされました。 私は、「は?」と呆気に取られました。 あまりに当然のことすぎて、わざわざ言及することの意味がわからなかったのです。日々、生身の人間を相手に英語を指導している者ならば、誰がそれらの人々(学校では生徒)のことを「外国語習得マシーン」だなどと思うでしょうか。彼(女)らはそれぞれの人生を歩んでおり、それぞれに違った背景を持って生きています。日々いろいろなことが彼(女)らの身に生じており、同じ英語の授業でも日によって心身の状態が全然違うことがあるのは、あえて言う必要もないほどに当たり前のこととして承知されているのではないでしょうか。 もちろん当の講演者とて、その程度のことがわからず話を持ち出したのではないでしょう。あくまで研究における考え方として、これまではそういった固有の背景を持つ生身の学習者から固有の部分を捨象した「外国語を学習する装置」を措定するのがスタンダードであったが、それが変わってきて、もっと生々しい息づかいの感じられる学習者を対象とした研究をしていこうという方向性が現れてきた、というほどの意味なのだとは思います。 それにしても、現場の教員ならば常識以前の自然な感覚として身に備わっているような事柄が、わざわざ「生態学的学習者観」などと大仰な言葉で呼ばれなければ研究の世界に登場できないのだろうか、と、しばし唖然としてしまいました。 そして、その時にふと思ったのが、いわゆる「理論と実践の乖離」の根っこは、案外こんなところにあるのかもしれないということです。 たとえば、「理論」というには不適切な例かもしれませんが、わかりやすいところで学習指導要領を例に挙げてみます。学習指導要領では、学校英語教育の目標を「実践的コミュニケーション能力」の育成においています。また、さらに大きな教育目標といえば「人格の完成」です。ですから、学校の英語科教員にとっては、生徒に「実践的コミュニケーション能力」を育成し、生徒の人格が完成するように支援するのがその仕事だと言えます。 しかし、はたして現場の教員は日々そんなことを考えて仕事をしているのでしょうか?そういう人もいるかもしれませんが、多くの場合はそんな抽象的な話ではなくて、「○○君が、教科書のLesson 7を読んで、こんな質問にスラスラ答えることができるようになったらすごいよな、かっこいいよな」とか、「いっつもわがまま言ってる○○さんが、クラスの話し合いで我慢して他人の意見を聞くことができるようになったらすごいよな、かっこいいよな」などと考えているのではないでしょうか。 つまり、常に個人の名前、個人の顔を脳裡に描きながら、ある具体的な場面においてある具体的な特定の言動をイメージしながら仕事をしているのではないでしょうか。実践の現場にある者にとっては、「実践的コミュニケーション能力」や「人格」などといった目に見えない抽象概念ではなく、もっと個別具体的な目に見える現象こそが大切なではないかと思うのです。 そういったことから、現場での具体的な個別事例を語る時に、それを抽象的な「理論の言葉」で述べなおすように求められると、しばしば困難を覚えることがあります。たとえば、以前私が公開授業をした時に、評価規準として「教科書の英文を正確に再生することができる」という項目を立てたことがあります。私がこのような評価規準を設けた理由は単純なもので、当該のクラスの生徒を思い浮かべて「あの子らが教科書の英文をスラスラと言えるようになったらすごいよな」と思ったから、そのように指導することを計画し、評価規準(=目標)としたわけです。 ところが、授業後に「教科書の英文を正確に再生する、というだけでは学習指導要領で言うどの技能を育てようとしているのかが不明だ。年間の指導計画の中で、この課ではどのような技能を育成するのかが明確でなければならず、評価規準もそれに則ったものでなければならない。」という趣旨の指摘を受けました。 この場合言うまでもなく悪いのは私です。英語教育の理論面(評価論)について不勉強であったことは否定できない事実であり、そういった批判自体はきわめて当たり前のことだと思います。しかし、一方でその批判に違和感を感じたことも確かです。 私は目の前の、個別の名前、個別の顔、個別の背景を持った個別の生徒を頭に描きながら、「この生徒たちがこんなパフォーマンスができるようになったらすごいよな」という発想で目標を設定したわけですが、理論の立場から言えば、その発想をそのまま目標にすることは許されないということなのです。理論の言葉では、もっと抽象的な「実践的コミュニケーション能力」の下位分類である何らかの抽象的な技能を育成する、という考え方から目標設定を行なわなければいけないということだったのです。 私は、現場の教員が理論の言葉を軽視してよいと言っているのではありません。ましてや、理論の言葉がおかしいとか、学習指導要領に基づいて指導計画を立て、実践的コミュニケーション能力を育成しようという方向性が間違っているとか、そんなことを言っているのでもありません。この点は強調しておきます。上の私の例でも、学習指導要領が求める英語指導像から言えば、私の目標設定が充分に整理されない未熟なものであったことは確かなのです。 ただ、現場の教員の発想は個別具体的な生徒の実態から生まれるのに対して、いわゆる理論の発想は一般抽象的な技能や能力観から生まれてくるという違いがあるのではないかということです。どちらが良いとか、どちらが正しいとか、そういうことではなくて、ただ本質的に発想が違って、その違いが双方にうまく了解され調整されていないことこそが「理論と実践の乖離」と呼ばれるものの実態なのかもしれない、ということです。 冒頭の「生態学的学習者観」に話を戻すと、いわゆる研究者が関心を寄せているのは特有な背景を持った個々の学習者ではなく、学習者一般に共通する現象なのでしょう。それゆえに抽象的な「外国語学習者」を措定した研究が従来主流を占めてきたということかと思います。しかし、それだけではやはり見えない部分があるので、研究を進めるためには個別の事象にも目を向けていかねばならないということに研究者たちが気づき始め、これまでとは違うパラダイムが登場してきたということで、それが新しい流れとして注目されている、ということなのでしょう。 研究者と実践者では興味のありかが違うので、実践者にとっては当たり前のことでも研究者にとっては斬新に映る、つまりそれだけ双方の発想が違っているという証拠なのかな、ということを感じました。 ところで、以前から私は「理論と実践の乖離」という現状認識そのものに違和感を覚えてきました。 英語教育に「理論」と呼ぶべきものは存在しているのか、存在しているとして、その理論は本当に実践から乖離しているのか、乖離していると錯覚しているか、「乖離している」とお決まりの批判をすることで思考停止に逃げ込んでいるのではないか、また「理論」よりも「実践」が優位にあるような雰囲気があるがそれでいいのか、「実践」は正しい枠組みで理解されているのか、など、はっきりしないことが多すぎるのです。 今でもその違和感は払拭できていません。ただ、今回冒頭の講演(の一部)をきっかけに以上のようなことに考えが及んだので、簡単に整理して書きとめておくことにしました。 |