2007.5.1. 教科書を?で?

「教科書を教える」のか、「教科書で教える」のか。一時期は持てはやされたこの二分法ですが、さすがに最近は、こんな言葉遊びのような議論は、あまり聞かなくなりました。しかし、だからといってこの二分法が止揚されて、より高次の地平が開けたのかというと、どうも私にはそのように思えません。むしろ、「教科書で教える」というのが当たり前になり、「教科書を教える」なんてとんでもない、というのが常識になっている、ということではないでしょうか。

しかし、ちょっと立ち止まって考えてみます。そもそも「教科書を教える」と「教科書で教える」とは、それぞれどういった行為を指すのでしょうか。

「教科書を教える」というのは、「教える」の目的語が「教科書」なわけですから、とにもかくにも教科書の内容を生徒に理解させ、注入することが授業の目的になる、ということでしょう。一方、「教科書で教える」というのは、「教える」の目的語は別に設定される、ということです。「教科書で○○を教える」の「○○」を、それぞれの教員がそれぞれの状況に応じて埋める、というわけです。

なんとなくわかりやすい議論ではあります。教科書の内容を生徒に詰め込むことに汲々とするのではなく、教科書を「活用して」、より有意義な力を身につけさせるのだ、というのは、最近の発想としては、至極当然のことのように思われます。

しかし、もう少しつっこんで考えてみると、途端にその単純さは消え失せます。

「教科書を教える」と言っても、教科書にもいろいろな要素が含まれているわけです。語彙なのか、文法なのか、それとも和訳なのか、作文なのか。本当は、意識的であれ無意識的であれ、「教科書の○○を教える」の「○○」を埋めながら、指導が計画されているはずなのです。だとすれば、「教科書で○○を教える」と、「教科書の○○を教える」との線引きは、いったいどこでなされるのでしょうか。

「教科書で…」と言う場合は、おそらく教科書外に指導すべき内容がきちんと存在していて、教科書は、その内容へと生徒を導くためのきっかけに過ぎない、という発想なのでしょう。教科書の個別的な内容にかかわらず、先験的に「教えるべき内容」が存在し、それを教えるためのカリキュラムに合わせて教科書を適宜当てはめ運用していく、とも言えましょうか。

いっぽう、「教科書の…」と言う場合は、あくまで指導すべき内容は教科書内に存在し、それを掘り起こしながらカリキュラムを構成していく、ということでしょう。教科書が生徒の学習内容を規定してしまう、という意味では、「教科書に振り回される」やり方かもしれません。

プロ教員たるもの、教科書に振り回されて授業をするのではなく、何をやれば生徒に力がつくのか、確たる理論をもって指導に当たるべきであり、教科書はあくまでそのプロセスを補助するものとして活用するべきなのだ、などと言われれば、たしかに御説ごもっとも、と同意せざるを得ないように思われます。

ですが、もう一歩具体的に考えてみることとします。

とある「英語T」教科書の1セクションです。

Many things around us now were only ideas a few years ago. Twenty years ago, no one imagined that we would use mobile phones, portable computers or electronic dictionaries some day. Portable computers can now do much more work than the large and heavy computers of the past. We can look up words in one small CD dictionary.
(開拓社 New Legend English I  Lesson 1[2])

これを教材として、授業で何を教えるか。たとえば、1つ思いつくのは、この文章が1つのパラグラフを成している点に着目し、トピック・センテンスを指摘させることです。説明文において、いわゆるパラグラフ・リーディングをしていくに当たり、トピック・センテンスを見分けるよう意識付けしていくことは、それなりに有益なことであると考えられますので、悪いやり方ではないでしょう。

この、「トピック・センテンスを見分ける」というのは、いわゆるスキル、あるいは言語技術とみなすことができるものです。ある程度抽象的な概念として規定できるものですから、これを授業の目標として設定するのは、少なくとも「教科書に振り回され」てはいないと言えるでしょうし、したがって、そういう授業は、「教科書で教える」の範疇に属するものであるように思われます。

しかし、授業の実際を想像してみますと、話はそれほど単純でないことが見えてきます。

いかに目標が「トピック・センテンスを見分ける」というスキルであるとはいえ、より下位の言語要素が理解されていなくては授業になりません。たとえば、imagineやmobile phone、look upといった語彙知識が生徒に獲得されていなくてはなりませんし、wouldのような助動詞についても理解されていなくてはなりません。それらの要素を無視して一足飛びに「トピック・センテンスを見分ける」などという抽象的なスキルを習得することは難しいでしょう。

とすると、授業においては、やはり語彙や文法を指導せざるを得ないことになります。これは、完全に textbook-driven な性質のものです。なぜ imagine という単語を教えるのか。「教科書に出てくるから」に他なりません。まさしく、「教科書を教える」ではないでしょうか。

もちろん、「 imagine などは英語コミュニケーションに必須の語彙である。教科書で出てこようが出てこまいが、指導するべきである」と言うことは可能でしょう。が、horse という単語を知らない高校生、cat と cut の区別が難しい高校生にも imagine は優先して教えられるべきなのでしょうか。おそらく、そんなことを言う教員はいないと思います。

では、imagine を教える/教えないの線引きは誰がするのか。実は、そんなことは教科書著者がやってくれていることなのです。周知の通り、各教科書には、だいたいどのくらいの学力帯の生徒を対象にしているか、というターゲット設定があります。教科書著者たちも、中高の教員であったり英語教育に関わる大学教員であったりするわけですから、当然、生徒の姿を想像して、(現実的な条件+)教育的なフィルターを通して盛り込む材料を検討しているはずなのです(はず、としか言えないのは、私が検定教科書の作成に携わったことがないからです)。

とすると、授業場面だけを見れば、「教科書(の imagine という語)を教え」ているように見えても、教科書著者の立場から見れば、「教科書で( imagine という語を)教え」ているとも言えるのです。まあ、ここまで言いだすと、もう屁理屈の領域かもしれませんが、「教科書を/で」という二分法が、見かけほど単純なものでないという点については、同意していただけるのではないかと思います。

と言いつつ、もう一つ話を一般化させて考えてみて、「教材を/で教える」と言う場合、どうなるでしょうか。教科書はあるけど、生徒がコミュニケーション活動をするのに語彙が不足するので、自作の語彙プリントで補充する、という場合を考えてみましょう。この場合、「自作のプリント(の語彙)を教える」のでしょうか、「自作のプリントで(語彙を)教える」のでしょうか。

もう、何のことか、わけがわからなくなってくる思いがします。

そういうわけですから、「教科書を教える」のか「教科書で教える」のか、といった議論は、あまり厳密に考えるほどの問題ではないし、厳密に考えるに足るだけの基盤を持った議論でもない、と私は思います。

要するに、教員の「心がけ」の問題であって、教科書に書かれている順番に機械的に授業を進めるのではなくて、目の前の生徒をよく見て、取捨選択や重み付けや、教科書外の教材の導入も考慮に入れながら、よく考えて授業しなさいよ、という程度の、とっても当たり前な話なのでしょう。

ただ、それにしたって弊害がないとも言えないのが、このような物言いの面倒なところです。大学の教職科目でも、採用後の初任者研修でも、「いいですか、皆さん。教科書を教えるのではいけませんよ。教科書で教えるのですよ」などと教わってきた若手教員は、これまでに先達が蓄積してきた教科書の扱い方すら身につけないまま、いきなり教科書を使わない授業に挑戦しようとしてしまうかもしれません。また、その意欲のない教員は、やはり教科書の扱い方を学ぼうともしないまま、行き当たりばったりの授業を繰り返していくのかもしれません。

特に、熟練した教員が、不用意に教科書を軽視するような発言をすることがあるのは、大きな問題です。「どういうときに能動態を使って、どういうときに受動態を使うのか」などという話をする前に、能動態そのもの、受動態そのものが身についていなければどうしようもないのと同じことです。物事には段階というものがあるのが普通だし、教員にも発達段階というものがあるのではないでしょうか(そもそも、学校教育法で教科書の使用を義務付けていることの意味を考えてみてほしいところです)。

ですから、ある程度の経験と勉強の積み重ねがあって、英語授業に関する言説のニュアンスや複雑性を含んで物事が理解できる段階に達した教員であって初めて、「教科書で教える」ということの意味が、語られていない部分を適切に補って了解されるのだろうと思います。逆に、そうでない教員や学生を相手に、「教科書で」と、うまいことを言ったような気になっていたとしても、その意味するところをきちんと補って伝えなければ、無責任のそしりは免れないと私は思います。シンプルな表現がことの本質を言い当てることが多いのは事実ですが、シンプルな表現が思考停止を誘うことも、また事実です。


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