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(本記事は、『「読むこと」の指導における「内容理解」』『英語授業「内容理解」についての整理』と連続した内容のものです。よろしければ、これらの記事にも目を通していただけると、私の問題意識がよりよくご理解いただけるかもしれません。)
さて、『「読むこと」の指導における「内容理解」』において私は、「読むこと」の指導のプロセスを、次のような模式図に示しました。

注目していただきたいのは、「トップ・ダウン寄り」にしても「ボトム・アップ寄り」にしても、読解の階層間に上下の動きがあることです。同記事で私は次のように述べました。
けっきょく、「トップ・ダウン」で行くにせよ、「ボトム・アップ」で行くにせよ、授業過程において、扱う要素のレベルに上下の動きが出てくるのは避け得ないことで、昔から人々が直感的に行なってきた「文法訳読式」という形に近い局面が生じるのは仕方のないことではないのか、と思えてくるのです。それを避けようとすると、途端にどこかに無理が生じてくるように思われます。
「読むこと」の指導に関しては、次のようなことがよく言われるのではないかと思います。
「生徒がどれだけ読めているか、その理解をチェックするような授業や発問は多いけれども、生徒に読み方を教え、読む力そのものを育てるような授業や発問があまり見られない。生徒に読み方を教え、読みを促進させるような指導が望ましい。」
もっともな理屈ではあります。しかし、講義調で一方的に指導者が話し続け、予定された内容を順に話し聞かせていくような授業ならばいざしらず、生徒とのインタラクションがあり、生徒の反応に対応しながら進める授業おいて、生徒に何がしかの不理解が生じていることが判明した場合、やはりその不理解を克服するように指導することは必要です。だとすれば、「生徒の理解をチェック」せずして、どうして指導が成立するのでしょうか。生徒の「読み方」に何らかの欠陥があるからこそ不理解が生じるわけで、どこに問題があるのかを探索することは、必要不可欠のプロセスであるはずです。
生徒に不理解が生じているとき、その原因は、分類論的にはさまざまです。「そもそも筆者は何のつもりでこんな文章を書いているのか」という筆者の意図がわかっていないから、その文章のある部分が理解できないということもあるでしょう。逆に、ある語の辞書的意味を知らないからわからない、ということもあるでしょう。ですから、生徒の目を、不理解が生じている部分よりも上の階層に向けさせることで解決する場合もあれば、より下の階層に目を向けさせることで解決する場合もあるわけです。
より上位の階層に問題がある場合、受験業界でも既におなじみのパラグラフ・リーディングなど、いわゆる読みのストラテジーを指導すれば良いのだと思います。(あるいは「スキル」と言っても同じこと。)
ですが、少なくとも私が今まで中高生に英語を指導してきた経験からいえば、より下位の階層に問題があることの方が大幅に多いのではないかと思うのです。多義語・多品詞語の文脈における意味が辞書から取り出せていない、いわゆる「構文」など定型的な表現がわかっていない、センテンスの文型がとらえられていない、など、ボトム・アップのスキルに問題があるから、ある文や文章が理解できないということが多いのが実際のところではないでしょうか。
「ある技能を効果的に発揮するためには、より下位の技能が自動化されていなくてはならない」というのは、きわめて古典的な理論であり、まさにより下位の技能に問題があるからこそ不理解が生じてしまうというのは、至極当然のことかと思います。
だとすると、生徒の不理解をキャッチした時点で、より下位の階層に降りて指導を行い、再び元の階層に戻ってくる、という指導プロセスは、「読むこと」の指導においては必然的に要求されるものだということになります。
そういったプロセスを典型的に体現しているのが、実は、他ならぬ文法訳読式という指導法・学習法ではないでしょうか。1文1文を訳すという作業をしながら、途中で不理解が判明したら、より下位の語句や構文といったレベルについて理解を確かめ、再度センテンスに戻ってくる。そうやって「ボトム寄り」のところで階層を上下しながら、全てのセンテンスの意味理解が達成された時点で初めてトップに向かう準備ができたと判断されるわけです。
文法訳読式というのは昔から人々が直感的にやってきた外国語の指導法・学習法であるわけですが、「ボトム寄り」の要素の理解を積み上げていくことの重要性を実践において示しているという点においては、きわめて合理的なやり方だといえます。
しかし、現在の英語教育界は、決して文法訳読式の授業を良しとはしません。なぜでしょうか。「いちいち日本語に訳さなくては理解したような気になれないクセがつく」「日英語が一対一で対応するような錯覚を与え、英語表現独自の意味・ニュアンスに目を向けなくなる」といったことが、一般的には主張されるかと思います。これらは、外国語学習の本質にも関わることであり、まっとうな主張であると思います。
しかし、より現実的・実際的な観点として、授業のマネジメントに関わる要因も挙げられます。まず何と言っても文法訳読式の授業は時間と労力が途方もなくかかります。生徒は予習で辞書を一生懸命に引き、教材の英文を全て日本語に置き換えてノートに書き付けていきます。授業では、1文1文の訳を確認し、間違っている時にはひとつひとつ語句の意味や文構造を解説しなければなりません。いかに生徒が生真面目に予習をしていたとしても、50分で教科書の1セクションについて内容理解と文法説明をこなすのがせいぜいでしょう。
しかも、「読むこと」の指導だけでそれだけかかるということで、他の3技能に費やす時間など皆無に等しくなるでしょうし、さらに「読むこと」に関してさえも、より上位の技能について指導をする時間がほとんど確保できません。学校英語教育においては4技能をバランスよく育てることが求められており、「読むこと」だけにありったけの時間を使うわけにはいかないというところに、文法訳読式の弱点があります。
さらに、文法訳読式の授業は単調になりがちで、合間に音読を挟んだり、適宜英作文を行なったり文法の演習を行なったり、という要素を加味しても、全体的に「ダルい」授業になりがちです。英文科の大学生ならいざしらず、中高生の学習意欲は喚起できません。生徒の学習動機という観点からも、文法訳読式の授業は歓迎される要素が薄いと言えるでしょう。
そのような理由から、純然たる文法訳読式は敬遠される動きが既にあります。いわゆる「コミュニカティブ」な授業とは呼べないまでも、意味内容に生徒の意識を振り向けるような発問をしたり、あるいは日本語で行なっていた発問を英語でやってみたり、ワークシートを工夫したりすることにより、訳以外の方法で生徒の理解をチェックするような授業は、広くなされていることではないかと思います。
ただ、いかにそのような工夫をしたところで、生徒が指導者の発する問いに答えるためには英文をいちど和訳しなければならなかったり、また発問を英語で行なっても、教材をそのまま読み上げれば正答になってしまう。といった状況も、これまた珍しくはないでしょう。(下の教材例で言えば、「筆者は、退団届(notice)を、どうするつもりだったの?」だとか、"What
did the author find at the station?"だとかいった発問が挙げられます。)
その中で、今のところ特に脚光を浴びているものが「和訳先渡し」や「100万語多読」といった指導法です。前者は「生徒に和訳させるのではなく、先に和訳を与えてしまって内容理解の時間を削減し、余剰時間で練習を存分に行なおう」というやり方であり、後者は「英文を、和訳を通じて理解するのではなく、まずは挿絵など言語外情報の助けを得て理解するレベルから始めて、徐々に英語を英語のまま読んで理解できるようにしていこう」というやり方です。
後者は「読むこと」のみに関わるものであり、4技能の育成という学校英語教育の前提は無視されているようにも思われますが、いずれにせよ、生徒が訳文を作ることをもって「内容理解の成立」とは見做さないという点はどちらにも共通しています。
話をなるべく具体的にするために、たとえば、次のような教材を例に、これらの立場がどのように「読むこと」の指導を捉えているかを考えてみましょう。 I thought it over and I said yes. Before leaving for the theater I wrote
my notice, intending to hand it in that night.
I hurried to the station. There I discovered that the train was late. I
arrived at the theater half an hour late.
"Where have you been?" the producer asked.
"I'm very sorry. The train was late, but I'll hurry. Anyway, I don't
go on stage till the middle of the first act."
"That's what you think! CAROL BROKE HER LEG THIS AFTERNOON AND YOU'RE
ON RIGHT NOW!"
(開拓社 New Legend English I Lesson 8 "How My Career Began"より)
文法訳読式では、生徒が文構造を分析して意味を理解し、その結果を訳文という形で表現することをもって「理解が成立した」と見做し、そのプロセスを反復することで生徒の「読むこと」の力が伸長すると考えます。ですから、生徒が自ら英文と格闘し、主語はどれか、動詞はどれか、修飾構造はどうなっているか、ということを地道に分析していくことこそが「読むこと」の学習の要諦ということになります。
例えば、"I thought it over..."における "think 〜 over"、"I
don't go on stage" における "go on stage"のような表現についても、辞書を参照しながら
"over の品詞は何だろうか、なぜ "on the stage" と冠詞が付いていないのだろうか、などと一つ一つ検証しながら意味理解を達成することが生徒には求められます。
しかし、「和訳先渡し」方式では、そういう作業よりも、意味理解が達成された後の練習の方が重要だという発想になります。ですから、まず和訳を与えてしまい、
"thought it over" や "go on stage" が「その件についてよく考えた」や「出番が来る」といった意味になるという、日英語の結びつきを先に確保してしまいます。そうやって、生徒がああでもない、こうでもないと考える時間を削減し、その代わり、そうやって生まれた余剰時間を存分に使ってさまざまな練習活動を行うことによって生徒の「読むこと」の力、あるいは他の技能の力を効率よく育成できると考えるわけです。
また、「100万語多読」のような多読法では、まずこの教材が理解できないとなれば、無理にこの教材を理解させようとするのではなく、その生徒が理解できるレベルの英文にまで立ち戻り、そのレベルの文章をたくさん読むことにより徐々に「読むこと」の力を伸長させ、最終的には和訳がなくとも当該の教材文が自然と理解できるところまで導く、というアプローチを取るでしょう。
つまり、初見で理解できない英文を八方手を尽くして理解させようとするのではなく、自然に理解できるレベルから始めて量をこなすことにより、徐々に「読むこと」の力が育成されると考えるのです。
文法訳読式を支持する立場からは、後者2つの方式は、頼りなく見えることでしょう。なんといっても、生徒が理解すべき教材の英文と真っ向から取り組む機会がないことは、文法訳読式の哲学には全く反します。「和訳先渡し」など言語道断でしょうし、「多読」にいたっては「指導」が影も形もないことに、強烈な違和感を覚えてもおかしくありません。実際私も、『英語授業「内容理解」についての整理』において次のように述べました。
これ以外にもいろいろありますが、こういったやり方に関して私が一貫して感じていたのは、「生徒が自力で英文を理解する術を教えていない」ということです。
なるほど、これらのような活動を行えば、その時間で扱う目の前の英文に関しては内容理解が達成されるでしょう。しかし、教室を離れて生徒が未知の英文と出会ったとき、指導者の手助けを必要とせずに彼(女)らはその内容を理解することができるのでしょうか。挿絵のない英文などあたりまえ、わからないところを相談できる友人がそばにいることも少ないでしょうし、ましてやワークシートの付いた英文など現実には存在しないわけです。
したがって授業過程における内容理解では、やはり生徒が自力で文構造を解析して意味を把握できるようになるようなスキルを育てるべきだ、というのが私の考えであり、研修会などで発表される「技」はその点を避けて通っているようにしか思えなかったのです。
しかし、逆に「和訳先渡し」のような立場からは、「そんなまどろっこしいことに時間を使ってないで、たっぷり練習させましょうよ」という声が聞こえてくるでしょうし、「多読」からは、「そもそも生徒が理解できない英文を無理やり理解させるなんてナンセンスだ」という批判が飛んでくるかもしれません。
お互い拠って立つところが違うわけですから、そもそも相容れないのは当然です。
けっきょく、この「論争」に決着をつけるには、次の問いに答えが与えられなければならないのだと思います。
「学習者にとって、「読むこと」の技能の学習は、授業のどの段階で生じるのか」
今のところ、英語教育研究のレベルではこの問いに対する答えは得られていないのではないかと思います(と言いつつ、それほど読解指導研究の動向に通じているわけでもないので、有益な研究成果が挙がっているのであれば、ぜひご教示ください)。しかし、指導者そして学習者としての直観からは、少なくとも次のようなことは言えるのではないかと思っています。
「生徒が自らの不理解を自覚し、その原因を理解し、それを克服できたとき」
たとえば上の教材で言えば、 "There I discovered that the train was
late." という文があります。これを「そこで私は遅れたあの電車を発見した」という意味で理解していた生徒が、授業でのやり取りにおいてthat
の解釈に問題があったようだということを認識し、その不理解を克服したときに、その生徒の「読むこと」の力がひとつアップした、と言ってよいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
これは、読解のプロセスを示した下図においては、階層間の上下動が生じている部分(B→CやF→G)にあたります。

つまり、「読むこと」の学習が生じるのは、まず不理解の存在が確認され、その不理解を克服すべく階層を上昇したり下降したりする、まさにそのプロセスにおいてである、と言うことができるのではないでしょうか。
このように言うと、「じゃあ、やっぱり文法訳読式が良いのか」「『和訳先渡し』や『多読』のような方法はいけないのか」ということになりますが、そうではありません。「多読」においても、あるレベルの本を読み始めて、難しいと思ったら無理せず下のレベルに戻るということです。「和訳先渡し」でも、たしかに初発の「内容理解」は訳文を与えることで済ませてしまいますが、重要な文法事項や難しい文構造に関しては「余剰時間」の中で指導がなされるとされています。
つまり、いずれの方式においても階層の上下動は「織り込み済み」であるわけで、やはりそこにおいて「読むこと」の学習が成立するということは言えるのではないかと思います。
少し脇道にそれますが、現行の目標基準準拠評価、いわゆる「絶対評価」においては、評価規準は、生徒が身につけるべき「スキル」をもって設定されるべきであるということになっています。しかし、それも、結局は生徒の現状に基づいた設定であるからこそ意味を持つのだと思います。
つまり、先験的に「読み方のストラテジー」のようなものを設定し、それを教えこむというやり方は、それが生徒の不理解を克服するのに役立つ場合に限って効果的であると言えるのであり、生徒の不理解のチェックもせぬままパラグラフ・リーディングなりスキミングなりといった「スキル」を指導することは、無駄とは言いませんが、「読むこと」の指導の本質を捉えたやり方ではないと私は思うのです。
多くの高校においては、少なくとも1年生だとか2年生の前半までだとか、そういう時期にはパラグラフやパッセージに関わるマクロなスキルよりも、センテンスレベルのミクロなスキルの育成に力を注がねばならないのが現状であると思います。だとすれば、見栄えの良いパラグラフ・リーディングやスキミング・スキャニングといった「理解の能力」に分類されるであろう項目に飛びつく前に、「知識・理解」に分類されるであろうセンテンスレベルのスキルを重点的に指導することは、「読むこと」の指導という観点からは、決して軽視されるべきではありません。
(と言いつつ、そればかりではいけないことは上に述べたとおりです)
そういう意味では、文法訳読式は「読むこと」の指導法としては、それなりに価値のあるものだと言えるのではないかという気がしてきます。私はここを間違ってきたのではないかと思うのですが、文法訳読式が否定されるべきなのは、それが学校における英語授業を構成する(ほとんど)唯一の方法論として君臨することにおいてです。ということは、この方式が持つ「読むこと」の指導における価値は、依然失われてはいないのではないでしょうか。そこを混然とさせてしまい、何が何でも訳読式はダメ、という思考停止に陥ってしまっていたのが私であり、少なからぬ数の英語教育関係者ではないかと思うのです。
「読むこと」のうち、ボトム・アップの部分をしっかりと行ないたいならば文法訳読的な局面があって良いし、文章をマクロ的に捉えさせるならばパラグラフ・リーディングをやったら良い。トップ寄りのことをやりたければ、英問英答、英問和答、要約などをやればよい。結局、個々の状況においてどこに焦点を当てるかによって授業の組み立ては変わってくるという、きわめて当たり前の結論に行き着くのでしょう。
このことは、リーディング指導に関する古典である高梨・高橋(1987)『英語リーディング指導の基礎』に、次のように相反する見解が述べられていることにも表れていると思います。
「リーディングの学習においてpoor readerが出合う困難や障害を、できるだけ自力で解決できるように指導することが大事で…」(p.63)
「しかし、ここで特に強調しておかなければならないのは、外国語学習用の教材であれば仮りに非言語情報に支えられた理解であったとしても、ひとつの読解であることには変わりないことである。」(p.122)
前者を重視するならば文法訳読式のようなやり方に分があるでしょうし、後者を重視するなら「多読」や「和訳先渡し」に分があります。どちらが正しいということではなく、結局はその時々の状況に応じて使い分けていくしかない、ということではないでしょうか。
私はといえば、今のところ「読むこと」に関して採用している授業展開は、
(1)語句の意味や用法の確認
(2)日本語による本文の概要の把握
(3)文法・語法のボトム・アップ的理解
(4)内容に関する英問英答、英問和答、和問和答
(5)トップ寄りの要素に関する理解と英語による要約
といったところです。
(1)まず、未習の語彙やその教材を理解するのにポイントとなる表現について意味や用法を確認する。
(2)次に、本時で扱う文章の内容を、生徒同士で日本語で確認し、穴埋めの要約文(日本語)を完成させる。
このことで、その教材にだいたいどのようなことが書かれているかが、習熟度の低い生徒も共有できる。
(3)文法・語法上のポイントや、文構造の難しい英文について、生徒に和訳させるなどして理解する。
この際、本時の教材だけでなく、他の英文を理解するのにも利用できる、汎用性の高い項目を重点的に考えさせる。
上の教材例の場合、 "...intending to hand it in that night"
の分詞構文や、"hand it in" の語順など。
逆に、汎用性が低く、ほとんど本時の教材を理解するためだけに使われるような項目については、和訳を与えてしまうなどして時間を費やさない。
上の教材例の場合、 "the first act" の "act" の意味や "you're on" の意味など。
状況に応じて辞書を参照させたりして汎化できる部分は汎化させるが、基本方針としてはあまり重点を置かない。
(4)(2)日本語での概要把握や(3)ボトム要素の理解を手がかりに、英問英答や英問和答などを通じてストーリーや文章全体の情報を整理して理解していく。
(5)最終的に理解させたい「筆者の意図」や「文章の要点」について考えさせる。英語による要約に関しては、語彙や文法・語法などの言語材料の定着という意味もある。
私の場合は、「和訳先渡し」のように完全に訳文を与えてしまうのではなく、汎用性の高い項目に絞って生徒自身に考えさせています。そこで生徒に不理解があれば、当然階層を降りて日本語で解説を与えながら理解を図ります。
逆に、当該の教材を理解するためだけに必要となる項目、つまり汎用性があまり高くないと思われる項目については、軽い扱いにとどめることで時間を削減し、その時間を音読や暗唱・暗写、「書くこと」に充てる、という方針でやっています。2006年度は特に「書くこと」に重きを置いているので、教材の文章構成や使われている言語技術を明示的に意識化し、練習させるための時間がけっこう必要になってくるので、「読むこと」に関しては削れるところは削っている、という状況です(教えたいことを全部教えだすとキリがないので…)。
以上、議論がいくらか拡散してしまいましたが、要するに、学習は(見栄えの良い)活動を行なうことで成立するのではなく、活動の中で問題点を認識し、克服するプロセスがあってこそ成立しうるのだ、と言えるのではないでしょうか。
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