2011.1.5. 普遍的英語教育目的論の限界−大修館『英語教育』誌特集から
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大修館書店の月刊誌『英語教育』2011年1月号では、「日本を支える英語教育とは」という題目のもと特集が組まれていて、たいへん興味深く読みました。 この雑誌は毎月購読しているものの、仕事が忙しい時期などはチラッと眺めて終わることも多いのですが、この特集は真剣に読みました。 もともと私が問題意識を感じていた部分にヒットしたうえに、それぞれの記事の内容が読み応えのあるものであったため、思わずマーカーを取り出し、気になった部分にいちいち印をつけ、自分の感想を書き込みながら読むという、ふだんこの雑誌に対してはやらないような読み方をしてしまいました。 その私の問題意識とは(学校)英語教育の目的論でした。 これまで10年間、中高の英語科教員をやってきて、最初はとにかく授業をまともに成立させなければなりませんから、英語教育のHOWにかなり意識が集中していました。 そのうち、生徒に力をつけなければならないという意識が高まるにつれて、教える中身があっての方法であると気がつき、WHATを考えるようになりました。 そして、だんだん気になり始めたのがWHYです。なぜ、何のために教えるかがあってこそ、では何を教えるか、どう教えるか、という話になると思うようになったのです。 WHY → WHAT → HOWなどという図式は、言葉にしてしまえば何のことはない、とっても当たり前の話ですが、私自身がそれを心底納得するには時間がかかったということです。 さて、そういう意識のもと、この号の特集記事を読んだのですが、「そうだよな」「なるほどな」と思う部分もある反面、「それは違うんじゃないのか?」と異議を唱えたい部分もありました。 他者の主張に触れて、賛成したいところ反対したいところが入り混じるのはよくあることですが、この特集について特に強く思ったのは、英語教育の目的を一般論として語るのは、かなり無理があることなのではないかということです。
私には私なりの英語教育目的論があります。といっても、生徒に「なんで学校で英語教育やる必要があるの?」と問われたときに自分なりの答えは用意しているというぐらいのことで、一介の現職教員としての見解を超えるものではありません。 それを、あくまで、私が個人的に、目的論の観点から読んだに過ぎません。 そういうわけですから、筆者の主たる意図とは違う角度からの議論になってしまうかもしれないことを、あらかじめおことわりしておきます。 以下、記事の中で気になった部分を引用し、私のコメントを書いていきます。全ての記事に言及するわけではありませんし、要旨をまとめることもしません。きわめて雑然とした記述になり、原典をお読みでない方にとっては偏った情報になることはご容赦ください。なお、引用中の太字・下線は全て私によります。 このように現実の問題として、英語国民でなくても国境を超えて仕事をしたり、コミュニケーションをとろうとすると、日本の外の世界の人たちは英語を使っている。世界の人が日本人に直接的にコミュニケーションをとろうとすると選択する言語は英語であり、日本人が外国に向けて情報を発信しようと思うのであれば自ずと英語で発信しなくては、聞き入れてもらえる可能性はぐんと低くなってしまう。これは、まったくそのとおりだと思いますが、著者自身が「とすると」「と思うのであれば」という条件を付けている点を字義通りに理解すべきだと思います。この条件が満たされない場合には英語は必要でないということになりますが、そういった場合がどのくらいの確率で生じるのか検証が必要です。 長期的なことをいうのであれば、日本も50年後には人口が7000万人になるという試算がある。そうなれば今の韓国のようにいやがおうでも英語で仕事ができる人でなかったら企業人としては立ちゆかないという時代がやってくるだろう。これもたしかにそうなのだろうと思います。しかし、やはりここでも「そうなれば」という条件が付されていることに注目したいと思います。つまり、「現在はまだそうなっていない」ということです。 こういった将来的な展望を根拠に「英語は大事だ!」と力説されても、「今を生きている」教員としては、いまひとつ現実味が湧いてきません。ましてや幼さゆえに狭い世界を生きている児童・生徒たちに対して「企業人として立ちゆかない」などという脅し文句は通用しません。 もちろん、教育が長期的な展望を持ってなされるべき営みであることは理解しています。今現在の必要性が低いからといって英語教育をおろそかにしてよいということはなく、近い将来に児童・生徒に資することが見込めるのであれば、そこに注力するべきでしょう。 しかし、将来の必要性など児童・生徒にとってはまるで現実味のないものですから、現時点で彼(女)らに英語を教える教員は、「企業人」以外のロジックをもって彼(女)らに迫らなければなりません。そして、児童・生徒の英語力を向上させようと真剣に働く多くの教員が苦しんでいるのは、まさにその迫り方の部分なのです。 したがって、「企業人として立ちゆかない」と言って尻を叩かれても、重圧感が増すばかりで教育現場の改善にはあまり役に立ちそうにありません。(著者の意図はあくまで1つの立場からの見解を提供することでしょうから、その意図以上のことを言うのもよくないとは思いますが。) 日本が内向きになっていること、留学生として海外に行く人が減少したことこの原因が何かはよくわかりません。著者が言うように、日本の若者が「内向き」になっているせいなのか、あるいは単純に不景気のせい、仕事が多忙なせいなのか。 仮に「内向き」が原因なのだとしても、そうなるように誘導するような働きかけが「若者の上の世代」からなされてきたことを無視してはいけないと思います。 あるいは、目の前の実用性こそが価値であるといった志向性を煽ったり、あらゆるものが消費の対象となり、一次体験を回避して都合の良い結果だけを金銭との交換により手に入れることができるというような幻想を持たせるといったことを、上の世代は積極的に行ってきたのではなかったでしょうか。 IHIが幹部候補生を対象としてこの限定はわかりやすいですね。 これは「使いたい、使いたくない」の問題ではもはやなくて、誰しもがある程度は使いこなせるようになっていなくてはならない、という認識が、グローバル展開をしている企業にはある、ということだ。これも、わかりやすい限定です。 要は、国際社会で活躍する日本人にとって必要な英語力とは、どのレベルでどの程度の密度のコミュニケーションをとるのか、によって異なるだろう。必要な人が必要なスキルを身に付けられるようにはかっていける社会、制度作りこそが求められている。これは、総論としては現時点で既に達成されているのではないでしょうか?英語を必要とする人は必要なだけの英語力を身に付けられる環境が日本にはあるし、学校教育はそのための土台を提供できていると思います。(土台ですから、その上に立つ実用的な建造物がないことはあたりまえです。ただ、「土台」の比喩には注意が必要であり、それについては後述します。) あるいは、日本の小学生・中学生・高校生は、果たして「英語を必要とする人」なのでしょうか?おそらくほとんどの場合、答えは「否」でしょう。だとしたら、著者の論理に乗る限り、日本の小学生・中学生・高校生の英語力が低くても問題はないということになってしまいます。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (2) 「産業界が求める「グローバル人材」とは−「グローバル人材育成委員会」の取り組み−」(林揚哲氏[経済産業省経済産業政策局 産業人材政策室 企画官]) また人材育成を担う大学についても、社会のニーズを適切に把握し、その変化に対応した人材を輩出することが期待されている大学界はこのような物言いを認めるのでしょうか。大学は人材育成機関なのか、社会のニーズにどこまで対応する必要があるのか。「期待されている」と言うとき、「期待している」のは誰なのでしょうか。ごまかしてはいては話が進まないと思います。 海外拠点のトップ、及びミドルマネージャーはもちろんのこと、企業幹部や国内拠点の管理職についても、4割程度の企業において、一定割合以上(該当社員の25%〜)の人材に、外国人とのコミュニケーション能力が必要とされるきわめて素直に、ここで出された数字を単純に計算すると、0.4×0.25=0.1。全ての企業を見渡して、「該当社員(≒管理職)」のうち10%以上に英語が必要ということです。 これは、それほど驚くべき数字ではなく、 特に、英語に関してはほとんどの企業が「グローバル人材」の確保と目的として採用するに当たり、英語でのコミュニケーション能力を重視している。とは言えないのではないでしょうか。 もちろん、本稿で定義されるような「グローバル人材」が、たくさんいればいるほど日本の企業にとって強みになるだろうとは思います。そして、そういった人材を育成する一環として高い英語力の育成が求められるというのもわかります。本記事で想定している「人材育成」は、主に大学においてのことのようですので、その限りにおいてはよく理解できる主張です。 ただ、その一方で、大衆化してしまった現在の大学では、筆者が言うようなエリート志向の教育が通用しないことも多いでしょうし、ましてや小中高の英語教育には、「グローバル人材」の論理が、そのままでは通用しないでしょう。 おそらく、英語教育システムの全体の目標ではなく、より部分的な、学習者の選別を経た上でなされる英語教育を想定する必要のある話ではないかと思います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (3) 「大学におけるグローバル人材の育成の取り組み−高大接続を視野に入れて−」(松本茂氏[立教大学経営学部教授]) 今や世界中の大学が、自分の大学のレベルを向上、維持させるために優秀な若者(研究者のタマゴ)を取り合っている。たしかに、現実としてはよくわかります。わかるのですが、教育に携わる者として、一抹の寂しさも覚えました。 ここで筆者が警鐘を鳴らしているのは、「限られたパイの奪い合い」に敗北していることについてです。 そこに、「パイ自体を大きくしよう」という発想はありません。 筆者の思い描く大学教育とは、いったい何なのでしょうか。 筆者は、本記事の後ろの方で次のようにも言います。 大学人にとって、「英語を英語で指導することを基本とする」という新学習指導要領の方針は大歓迎である。ひどい理屈です。 全国の高校の英語科教員が学習指導要領の「授業は英語で」方針に従うのは、日本国全体の言語政策・教育政策の一環として、また、目の前の生徒の力を最大限に引き出すために、そうするのです。 けっして大学の教員を楽にさせるためではありません。 繰り返しますが、現実問題としてはよく理解できるのです。大学も生き残りがかかっていますから、「戦力」になるような学生をなるべく多く集めたいというのは大学経営の論理としては真っ当なものです。そして、そういった大学の現実を広く知ってもらい、その現実への対処法を具体的に紹介するという意味では、この記事は価値のあるものです。 しかし、筆者とて、自分が担当する学生の学習成果は学生がもともと持っている能力次第であり、自分の指導は影響しないなどとは考えていないはずです。じっさい、この記事の中にも高校英語教育の現状を憂える発言が見られますが、「やり方を変えればもっと成果が上がる」と筆者が考えているからこそ、苦言を呈するのでしょう。 であればこそ、優秀な学生を奪ってくるという「大学経営」と同時に、それほど優秀でない学生でもきちんと指導するという「大学教育」の役割を自覚した発言をしてほしかったと思います。 限られた字数の中で全てを語ることが不可能であるのはよくわかりますし、筆者の「姿勢」を問うてもまともな議論にならないことは承知していますが、やはり、教員としては、なんとも寂しい思いが残りました。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (4) 「生涯英語を学ぶ礎を作る英語教育」(向後秀明氏[文部科学省初等中等教育局国際教育課教科調査官]) 学校は一部のエリートを育成する場ではない。卒業後の道は千差万別で、英語との接点も異なる。将来、各自のニーズに応じて英語学習を継続していけるよう、学校ではその土台作りを保証するようにしたい。まったくその通りであると思います。このような立場の人にこのように言ってもらえると、中高の英語科教員はどれほど心強いでしょうか。 しかし、「中高6年間英語を習っても、ちっとも使えるようにならない」という常套句が今でも少なからず用いられる現状を見ると、このような意見はあまり受け入れられていないのではないでしょうか。 もちろん、「土台」という比喩の不安定さには留意しておかねばなりません。何を指して「土台」と呼ぶか、また、そもそも英語力を「土台」と「その上に載るもの」に分けることができるのか、難しいところではあります。 もし筆者の言う3つの「力強さ」が「土台」だとしたら、これはずいぶんと実践的な「土台」だと思います。「土台作り」=「即戦力になる英語力でなくてもよい」という図式に安心してはいけないということでしょう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (5) 「高校ではどのような英語授業が求められるか」(阿部邦彦氏[山梨県総合教育センター主幹・研修主事]) teachingではなくlearningという視点から見たとき、また、コミュニケーション能力の育成という視点から見たとき、目標とすべき生徒の学習成果が明確になっているかもう一度確認する必要がありそうだ、「教科書で学習したことを必然性のあるauthenticな別の文脈で使うことができること」という形で目標が明確に設定できれば、目標の実現に資するという視点から、指導や評価を具体的に考えることになる。ふだん学習指導要領など気にしていないという教員にとっても、これはわかりやすい表現だろうと思います。 高校英語教育では、おそらく「何を・どれだけ知っているか」と「何を・どれだけ理解できるか」は頻繁に焦点化されるのに比べて、「何が・どれだけできるか」という視点から指導・評価が計画されることは少ないと思われます。 昔の行動主義に基づくbehavioral objectivesという考え方は、外形的な行動を指標としていた点がわかりやすいものでした。この考え方自体は学界の趨勢に合わせて主流から退いたようですが、観察できるものでなければ目標・評価規準として機能しにくいという点は現在も同じです。 今は、外形的で不安定なbehaviorではなく、内在化されて安定したskillを測るという考え方なのが少々ややこしいところですが、結局は、学習者の持っている英語力を、わかりやすい形で外形化する過程が必要です。 もちろん、外形を測定する場合、必ず諸々の要因が関係してきて、「安定した、内在的な能力」を推定するのが容易でないというのは、どうしてもついてまわる問題です。 しかし、厳密な話はとりあえず抜きにして、高校の英語授業を変えていくための大きな指針としては、筆者の示す考え方は、現場の教員にとってはわかりやすいものだと思います。 また、筆者が示す「3点」=目標・評価・指導の考え方も、強調されるべきものだと思いました。 (私は、本当に恥ずかしいことに、学部生時代以来「評価」にまるで興味がありませんでした。絶対評価の取り組みについて雑誌に報告を載せてもらったこともありますが、私の意識の中では「指導」が何よりも大切で、なぜそんなに「評価」が取り沙汰されるのかがわかっていませんでした。 しかし、ようやく最近になって、評価がいかに大事なものかが理解できてきて、遅ればせながら評価について真剣に学ばなければならないと思うようになりました。) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (6) 「高校で国際交流力を身につける」(木嶋勇一氏[市原中央高等学校教諭]) また、「生徒が大学に入った時点で終わりではなく、入学後、さらには社会に出てからの英語力についても責任があるのではないか」という声も出てきた。そこで、真の意味での英語教育のあり方について考えてみようということから始まったのが英語コースだった。この記事では、筆者の勤務校での、たいへん意欲的で立派な教育実践が紹介されています。その実践を支える教員集団の熱い想いが感じられ、同じく中高現場の教員として、敬意を覚えながら読みました。 また、末尾の方での、 国際交流活動を通じて、生徒たちは何事にも積極的に取り組むようになったと感じている。という言い方には、現場の教員としての率直さを感じました。生徒の変容は、種々のテストのスコアや質問紙などを通じても捉えることができますが、現場の教員としては、まずはやはり、日々生徒と接する中で「感じる」ことで捉えるというのが実感ではないでしょうか。「感じる」ことなどは、測定法としてはとうてい厳密なものではありえませんが、筆者の言わんとするところは、よくわかるように思います。 ただ、「真の英語教育」という表現には注意が必要かと思いました。 「真の」や「本当の」という言葉は、多くの場合、字義通りの意味ではなく、むしろ「私(たち)の考える」という意味に過ぎません。 ですから、「市原中央高校の考える、英語教育のあるべき姿」という意味と理解すれば問題はないのですが、それが、他の高校にも当てはまるものだと考えるのは危険だろうと思います。 「社会に出てからの英語力」として求められるものは、向後氏が言うように、まさに千差万別です。同校が行っているような国際交流の活動がそれほど効果的でない高校現場もあるでしょう。 その意味で、同校の実践は優れたモデルではあるけれども、他にもたくさんあるモデルのうちの1つに過ぎないということは、確認しておくべきことだと思います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (7) 「英語力は土台づくりから」(根岸裕氏[関西外国語大学教授]) ここでも「土台」という比喩が登場します。 教材で取り上げたテーマについての知識が欠如していたり、きわめて乏しいため、英語そのものは決して難解ではないのに、内容を正しく理解できない学生がかなり出てくるのだ。この問題意識には同意します。当たり前のことですが、「言葉」が「内容」を伝えるものである以上、伝える・伝えられるべき「内容」を持たない者にとって「言葉」は役に立ちません。役に立たないだけでなく、それを習得することも期待できません。 何はともあれ、まずは英語力を身につけて、それから内容のあることを表現したらいい、という考え方もあろうかとは思いますが、実際問題として、やはり内容がなければ英語力も身につきにくいということは事実だと思いますし、現在の英語教育の問題点として考えられていることの中にも、このことが大きく関わってくるものがあるように思います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (8) 小学校で英語を学習することで何が変わるか(小泉仁氏[東京家政大学教授]) 「英語の楽しさを体験すればよい」と言うものの、小学校教員たちは教育のプロであり彼らが真摯に外国語活動に向き合って子どもたちと共に取り組むならば、ただの遊びで終わるはずはない。一見、小学校教員に敬意を払った物言いに見えますが、実はほとんど脅迫ではないかと思います。 たしかに小学校教員は教育のプロですし、「無茶振り」な外国語活動に対しても、プロとしてのプライドを賭けて真剣に勉強して取り組まれている先生方がたくさんいらっしゃることは知っています。 しかし、だからといって「ただの遊びで終わるはずはない」などと言われてしまうと、仮に「ただの遊び」で終わってしまった場合、それはすなわち、小学校教員の責任ということになってしまいます。 しかし、現在の小学校教員は、けっして外国語を教えるプロとしてトレーニングを受けたわけではありません。あくまで、現場でのキャリアを重ねるうちに、時の教育政策を受けて、「たまたま」外国語を教えることまで担わされるようになってしまったに過ぎません。そのような小学校教員にどれほどの責任が負わせられるというのでしょうか。 小学校教員は「英語は楽しい、コミュニケーションは楽しい」だけではなく、外国語を身につけることの意味を子どもたちに伝えることが求められるだろう。外国語活動は教員にとって「学習指導要領に書き込まれたからやる」のではなく、「初等教育の一部として子どもたちに必要だからやる」のでなくてはならない。これも、たいへん立派なことを言っているように見えますが、実はとんでもないことを言っていると思います。 筆者の論理に則って、小学校教員たちが、外国語活動は「初等教育の一部として子どもたちに必要ではない」と考え、「なぜやる必要がないのか」を自分の言葉で語ることができれば、小学校での外国語活動はやらなくてもよいのでしょうか。 そんなことはありえません。 ここで、小学校教員の語りとして想定されているのは「なぜやるのか」だけです。それ以外の立場から語ることは認められていないのです。そんなもののどこが「自分のことば」でしょうか。強制そのものです。
「学習指導要領に書き込まれたからやる」。 理想としては英語教育の理念は一貫するものであってほしい。「一極化」や「偏向」ではなく、多様性を含みつつ、体系として統一的であることを「一貫する」と捉えるならば、まさにその通りであると思います。 学習指導要領が求める「言語の使用場面」「言語のはたらき」を意識した教材は、本課から独立させた扱いになっていることが多い。これは純粋に疑問です。今の教科書は、言語材料はもちろん「使用場面」や「はたらき」も巧みに散りばめて構成されているように思いますが、違うのでしょうか。 1つの会話文なり文章の中に、言語材料・使用場面・はたらきが統合されて示されており、授業者はそれらを必要に応じて取り出して指導するというのが現在の教科書の扱い方だと私は思っていたのですが。 中学校では小学校のとき以上に英語を使えるように教えてくれるはずだ、より楽しくなるはずだとの期待感が強いと思われる既成事実として小学校での外国語活動が存在する以上、中学校教員がそれを無視してはならないのは当然です。筆者が言うように、小学校での学習を踏まえたうえで中学校での英語教育を構想しなおす必要があることは、避けては通れない現実だと思います。 ただ、その一方で、中学生という発達段階に応じた英語教育というのも、相変わらず考えるべき課題です。中学校の英語科教員の何よりの課題は、中学生にとって望ましい英語教育のあり方であり、けっして「小学校に合わせる」ことではありません。たとえば、外国語学習の「楽しさ」も、小学生と中学生では異なるでしょう。 そのことを踏まえずして「小学校で外国語活動があるから中学校はこうあるべきだ」というだけでは本末転倒です。 これまでの小学校外国語活動の試行期間での授業例には、小学生に細かな文法を教えないとの配慮から冠詞を省略したり複数形のない名詞を使わせたりすることがあって、驚かされることがある。たしかに、英語教育の専門家からすると呆気に取られる「配慮」ではあります。しかし、上述のように、小学校教員は英語教育のトレーニングを受けてきたわけではないのです。そういった人々に過重な負担を強いると、自然な「適応」の働きとして、このような突拍子もない発想が出てきても不思議ではありません。 それだけ無茶なことを小学校教員に要求しているということの証明になりこそすれ、こういった事例を根拠に モデルとして教員は正しい表現を使い続けなくてはならない などという正論で小学校教員を追い詰めるのでは、まるで見当違いと言わざるを得ません。 どんなことばを操るにしても、肝腎なのは論理的な思考力と幅広い知識、ことばに対する感受性である。喋ることそのものは、必要になればなんとかなる。若いとき、ものを読まなかったり、考えなかったり、感じなかったりするのがいちばん怖い。この主張自体は、その通り、と思います。(7)の根岸氏の記事について述べたとおりです。 ただ、難しいなと思うのは、「必要になれば」というのが二義的であることです。 「英語をしゃべることが必要になった」と言う場合、「さあ、これから必要になるぞ」という場合と、「今、この瞬間に必要だ」という場合が考えられます。 「さあ、これから」というのは、たとえば海外勤務を命ぜられて来月から仕事や生活の言語として英語が必要になる、というような場合です。 この場合、英語をしゃべる場面に直面するまでには、わずかとはいえ、準備する期間を取ることができます。その間に再学習して、「さび付いた英語力のさび落とし」をすることになります。また、実際に生活をし始めてから、徐々に英語にチューニングしていくこともできます。 このとき必要になるのは、基礎となる英語力と、継続的に英語力を維持・向上させていける英語の学習法です。 その一方で、「今、この瞬間に」というのは、たとえば街で観光客に話しかけられたというような場合です。 この場合、準備する余裕はありません。まさにその瞬間に持てる英語力を駆使してなんとかしなければなりません。 このとき必要になるのは、実践的な英語力そのものです。 どちらも英語教育が提供しなければならないものですが、どちらにウェイトを置くかという問題があります。 私の知る狭い範囲でのことですが、「さあ、これから」の状況を経験した人は、わりと従来の英語教育を肯定的に捉えていて、「学校でみっちりやった読み書きの力があれば、あとはどうにかなる」ということを言うことが多いように思います。 しかし、「今、この瞬間に」の状況を経験した人は、「中高6年間英語を習ったのに、全然使い物にならなかった」という感想を持つことが多いように思います。 学習指導要領が優先的に求めているのは、どちらかと言うと「今、この瞬間に」の状況に対応できる英語力であるように思われますが、日常的に英語を必要としない人にその力を保証するのは、なかなか難しいことではないでしょうか。 このあたりの目標設定をあいまいにしていてはいけないと思います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− さて、長々と引用しながらコメントを付けてきましたが、これらの論考を読むにつれて、英語教育の目的論を一般化して述べることは難しいのではないかと思うようになりました。 国を引っ張っていくエリートとしての英語力も必要ですし、一般市民としての基礎的な英語力も必要です。 日本に住む限り、現状としては日常的に英語が必要とされることは、一部の企業に勤める人を除いて、ありません。では、日常的に必要ないから英語力は低くても良いかというと、そうでもなくて、やはり英語力の高い人が多いほど、国全体に資するところは大きいでしょう。特に、現時点はともかく将来のことを考えると、これからは英語力が高い方が、個人としても国としても有利なことが多くなってくると思います。 しかし、それでもやはり、英語力などなくても特に問題のない人々は確実に存在します。 そのあたりの折り合いが難しく、「万人に当てはまる英語教育の目的」は想定しがたいのではないかと思われてなりません。 となると、結局は、 ・徹底して高度な英語力を身に付けさせる人々
を国策として選別し、それぞれに合わせた英語教育をやっていくという考え方が合理的ということになるでしょう。 「人格の完成」や「生きる力」と言っても、では、外国語(英語)によるコミュニケーション能力の育成が、その中でどのような働きをするのかが、理念的にですら定義づけられていません。 国として、国民や日本に出入りする人々の使う言語をどうしたいと考えているのか、言語政策が明らかでないのです。あるいは、公教育の中での外国語教育にどのような意義を持たせようとしているのかもわかりません。聞こえてくるのは経済界からの「英語が使える人材を!」との要求ばかりです。 一言で言えば「哲学がない」ということでしょうか。 そういったことも、英語教育の目的論を一般論として語ることの難しさの遠因であるようにも思います。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− と、そのように言っておきながら、まったくの蛇足ですが、ごく私的な英語教育目的論を書き残しておこうと思います。他にこんなことを書く場もないと思いましたので・・・。 私の個人的な考えとしては、日本国民全てに当てはまる英語教育の目的とは、一言で言えば「世界平和」です。 唐突な、という印象を持たれる方も多いかとは思いますが、理屈としては次のようなことです。 もちろん、これも相対的な価値観に過ぎませんが。 |