2006.10.10.  「読むこと」の指導における「内容理解」−解消しがたいジレンマの所在−


ふつうに教科書を使って授業をするとき、特別に「読むこと」に比重を置いた授業でなくとも、まずは文章に何が書かれているのかを生徒が読み、理解する局面が必要になります。いわゆる「内容理解」です。この「内容理解」をどのように進めるべきかで悩む人が少なくないようです。研究会などで「内容理解はどのようにされていますか」という質問がよく聞かれるのもその証拠だろうと思います。

私自身の経験を振り返ると、文法訳読式ではやりたくないので、何とか見栄えの良い活動をやろうとする、でも、それで生徒がスッキリ理解してくれるというわけではなく、むしろ生徒が十分に理解していないがゆえに、見栄え良いはずの活動が不恰好になってしまう、というような事態が生じたことが多々あります。いったん教科書に書かれている内容を生徒が理解した状態になってしまえば、後は音読でも暗写でも、何でもやりやすいのですが、その状態を作るまでの過程が、どうも気持ちよく行かない、という思いが私にはあります。「内容理解」は難しい、と、ずっと悶々としてきました。

ですが、その悶々とした悩みを解決するには至らないものの、なぜ自分が悶々としてきたのか、については、ようやく理由がおぼろげに見えてきたように思います。どれほど一般化できる話なのかはわかりませんが、思考の整理として、以下にまとめてみたいと思います。

ある「英語T」教科書の1セクションです。(開隆堂 New Legend English I Lesson 6 The Green Banana )

 This kind of thing can happen in any place. My meeting with the green banana started on a very high mountain road in central Brazil. My old jeep was climbing slowly through wonderful countryside when the radiator began to leak, ten miles from the nearest mechanic. The over-heated engine made me stop at the next village. The village had just a few houses and a small store.
 People came together to look. Three fine streams of hot water were coming from holes in the radiator. "That's easy to fix," a man said. He patted me on the shoulder, saying that everything would work out. "Green bananas," he smiled. Everyone agreed.

さて、このセクションで授業をすることとしましょう。授業の目標は状況次第でいかようにも設定されることでしょうが、少なくとも文法事項の導入ではなく、この文章を素材に何らかの言語活動が行われる授業であると想定します。もちろん、目標によって授業の焦点は違ってくるわけですが、何はともあれ、生徒がこの文章の意味を理解してくれないことには落ち着きません。授業を受けなくともこの文章の意味がラクラクと理解できる、というわけではない生徒に対して授業をする場合、さて何から始めるか。

荒っぽく言って「内容理解」指導の進め方には「トップ・ダウン」と「ボトム・アップ」の2通りの筋道があると言われます。文章を読み、理解するとき、読者が理解する要素を次のように分けるとき、両者の性質は次のように図示することができると思います。

        
1→7の順で理解を進めていくのが「トップ・ダウン」のアプローチ、7→1で進めるのが「ボトム・アップ」のアプローチということになります。当然のことながら、俗に「トップ・ダウン」型と言われる授業でも、いきなり1から始めることは稀で、普通は3か4あたりから始めるでしょうし、「ボトム・アップ」型でも6から始める例は多いでしょうから、上図はあくまで単純化したものであるとご理解ください。ともかく、授業展開として、より上位の要素から下位の要素に向かっていくことを指向するのか、その逆を指向するのか、という違いです。

さて、「トップ・ダウン」のアプローチを取るとすると、理想的には、筆者がどのような意図をもってその文章を書いたかを理解した後、その文章が扱う主たるテーマ、文章の概要・要点へと理解を進め、徐々に細部へと入って行き、最終的には語句のレベルにまで理解が確保される、という授業プロセスが考えられます。

活動の形態はいろいろあるとして、その基底における発問としては次のようなものが例として考えられるでしょうか。

  [発問の例]
    1.Why do you think the writer wrote this story?
    2.What is this story about?
    3.Why does the writer say "The village had just a few houses and a small store"?
    4.Describe the outline of this story.
    5.What is the first paragraph about?
    6.What does "He patted me on the shoulder, saying that everything would work out" mean?
    7.What does "work out" mean?

こういったプロセスの利点としては、常に文章全体の言わんとするところを意識しながら細部を読み取ることができるため、いわゆる「木を見て森を見ず」の状況を避けやすいということです。また、極端な言い方をすれば「結論が最初から見えている」状況で読んでいくわけですから、その「結論」を補助に理解を図ることができるという点も挙げられます。

しかし、そういった利点は認めつつ、理想形どおりの授業展開には、かなりの無理が見られることも確かです。文章を読みもしないのに概要や要点がわかるはずもなく、いわんや筆者の意図をや、ということです。とすると、授業の展開として避け得ないことは、まず1や2については指導者の方で先に与えてしまうことです。「この筆者は、筆者が体験したことを読者に紹介するためにこの文章を書いています。また、この文章では、大きく言って筆者が見舞われたトラブルについて述べられています。さあ、読んでみましょう。」というわけです。

さらに、4にしても、下位の部分で理解が達成されていないわけですから、読み手のストラテジーとしては「理解できるところから理解していく」というものにならざるを得ません。文章の部分部分は理解できるのだけど、全体として何の話をしているのかは、確信が持てない、という状態です。そうすると、「理解できるところ」がそのままその文章の要点であればよいのですが、そんなに都合の良いことがあろうはずもなく、いきなり「概要・要点」を尋ねられても、満足な答えが出せるわけがありません。

いかに授業の後の方で細部に入っていくとはいえ、「理解できないものは理解できない」わけで、理解できない部分が多い生徒は、自分のわからないことばかりを要求される活動で急速に学習動機を失うでしょう。(この危険性は、「オール・イングリッシュ」圧力がかかると余計に高まるのは言うまでもありません。)

実際の授業場面を想像するとより鮮明になるのではないかと思いますが、生徒が4の発問(概要・要点)に適切に答えられない場合、その生徒はどこにつまずきを覚えているのでしょうか。1や2といった、より上位の要素が理解できていないために答えられない、ということも皆無ではないでしょうが、多くの場合、むしろより下位の技能、特に6や7につまずきがあることでしょう。

そうすると、たとえば、次のようなやり取りが授業で起こることになります。

   教員:Now, describe the outline of this story.
   生徒:I have no idea.
   教員:What's this story about?
   生徒:radiator?
   教員:Yes, that's right. Then, what happened to the radiator?
   生徒:Three fine streams of hot water were coming from holes in the radiator.
   教員:What did the writer do?
   生徒:He patted me on the shoulder.
   教員:No, no. What did the WRITER do?
   生徒:My old jeep was climbing...
   教員:No, no. What did the WRITER do?
   生徒:I don't know.
   教員:What does "The over-heated engine made me stop at the next village" mean? In Japanese.
   生徒:「そのオーバーヒートしたエンジンは私の手作りだったので、次の村で止まった」
   教員:ん〜、違うなあ。「私の手作り」ってどこから出てきたの?
   生徒:"engine made me"
   教員:それだったら、"the engine made by me" とかにしないと受身の意味が出ないだろ。ここのmadeは、使役動詞のmakeだよ。覚えてる?
   生徒:ああ、はい。なんとなく…。
   教員:じゃ、ちょっと復習な。make + O + C で、「OにCさせる」って意味だったよな。じゃあ、この場合は、どんな意味になるの?
   生徒:「私に止まらせた」
   教員:そうだな。「私に止まらせた」とか「私を止めた」という意味だな。OK?
   生徒:はい。
   教員:Then, after the writer stopped at the next village, what happened?
   生徒:People came together to look.
   教員:And...?
   生徒:...わかりません。
   教員:OK. じゃ、ちょっと日本語で確認しようか。 "He patted me on the shoulder..."以下の文はどんな意味?
   生徒:…「みんな仕事に出ている」?
   教員:「仕事に出ている」?
   生徒:ええと、"work out"。
   教員:ああ、"work out" は「仕事に出ている」って意味じゃなくってね…
 
説明のために多少デフォルメしたやり取りではありますが、似たような状況は多くの教室で生じるのではないかと推察されます。概要を尋ねているのに、その下位のレベルで理解が不十分であるために、発問(指導内容)のレベルを下げて行き、けっきょくは語句の意味を確認するところまで行き着いてしまう、という事態は容易に起こりうるものです。

もちろん、「トップ・ダウン」ですから、「トップからダウンして行き、理解が達成された」という考え方も可能です。そういった下降のプロセスが1・2回で済むのであれば悪くないのでしょうが、1つ発問するごとにいちいち一番下のレベルにまで下降していかなければならないというのでは、明らかに効率が悪いですし、生徒にしても、いったい何を学習しているのかがわからなくなってしまいます。

(さらに言えば、上の教材例のように、そもそも教材の分量が少なく、それ自体が概要と言ってもいいくらいである場合、概要を尋ねてしまうと、生徒は教材の表現をパラフレーズして解答しなければならなくなるので、負荷が高まってしまうという欠点もあります。これは教材の問題ですから、ここでの本題とはズレますが。)

そういうわけで、「内容理解はトップ・ダウンでやってます」と言う人でも、実際のところは先に未習の語句や文法事項といった下位レベルの要素について指導しておいて、つまり予測されるトラブル・スポットを除去したうえで、あらためて「トップ」から始める、という手順を踏んでいる、という例が多いのだと思います。言うなれば、「ボトムから少しだけアップして、トップに飛んで、少しずつダウンしてくる」というプロセスです。

では、下位レベルの要素を固めてから始めるのがよいとなると、「ボトム・アップ」の方が良いということでしょうか。たしかに、「ボトム・アップ」のアプローチでは、まず語句の意味を確認し、次にセンテンスの意味を確認し、その積み上げでパラグラフ、そして文章の内容を理解していくというプロセスを踏むため、手堅いと言えるでしょう。

このことは、学力差への配慮という点において大きな意味を持っており、授業の冒頭は、習熟度の高い生徒には自明のことばかりを扱うかもしれないが、できるだけ多くの生徒の理解度を統制しながら授業を進めていきやすいというのは魅力であろうと思います。

しかし、やはり難点もあるということは、これまでにさんざん指摘されてきたとおりです。まず、何と言っても時間がかかりすぎます。本当に語句の意味から始めて一つ一つ積み上げるやり方を取ると、授業時数などいくらあっても足りません。いきおい扱える教材の分量に限界が出てきますし、分量をこなすことを優先すれば、授業で扱う内容を省かなければなりません。

その結果、いわゆる「進学校」と言われるような学校で行なわれることは、語句や文の意味は予習という形で生徒の家庭学習に任せ、授業の効率化を図ることです。実際の授業場面を見たとき、「ボトム・アップ」とは言え、語句の意味の確認から始めるのではなく、まずセンテンスの意味を問うて、それで生徒がうまく答えられなければ語句の確認にレベルを下げるというプロセスが多く見られることと思われます。これは、「トップ・ダウン」で見られたのと同じことですが、要するに、全くのvery bottomから始めるとあまりに非効率的なので、少しは上位のレベルから話を始めるということでしょう。

逆に、「学習困難校」と言われる学校では、1年かかっても教科書が半分くらいしか終わらない、という事態が生じます。教える方も学ぶ方も、授業をやっているときは、なんとなく1つ1つのセンテンスの意味を捉えるのに一生懸命で、勉強させた・勉強したような気になってしまうのですが、終わってみれば、たいして量をこなすことができずに徒労感だけが残る、という結果になりがちです。

また、往々にしてこのアプローチでは、部分の理解が集積された時点で文章の理解が終わったとされることが多く、「木を見て森を見ず」の状態に陥りがちであるというのも、以前からずっと指摘されつづけていることです。部分の理解の和が全体の理解ではない、というのは多くの人が認めるところでしょうが、授業時間の制約などから、部分の理解の和を得た時点で学習が完了してしまい、「その先」(上図では3以上のレベル)に、なかなか発展していかないという事態が生じてしまうのです。

というわけで、「内容理解」をどのように進めるようかと考えるとき、完全なる「トップ・ダウン」でやっても難しい、かといって生徒の理解を大事に考えて、完全なる「ボトム・アップ」でやっても苦しい、といった状況が生まれるわけです。けっきょくはその中間のどこかで調整をつけて、「トップ・ダウン寄り」で行くのか、「ボトム・アップ寄り」で行くのか、というところで妥協点が探られることになるのだと思います。

この辺りの関係を図示すると、次のように表すことができるでしょうか。

     

「完全なトップ・ダウン」と「完全なボトム・アップ」はほとんど理念型と言ってもよいかと思いますが、「トップ・ダウン寄り」と「ボトム・アップ寄り」では、具体的な授業場面を想定することができます。

「トップ・ダウン寄り」に関しては、上で示したような授業中のやり取りが考えられます。つまり、まず、筆者の意図について教員が説明し(A)、次に文章の主題を問う(B)。生徒が答えられないので、徐々に発問のレベルを下げていき(C〜E)、どうもセンテンス以下の部分につまずきがあるようだと判断して、センテンスの意味を問う(F)。その問いには生徒が答えることができたので、いったんより大きな単位の内容を問うて(G)、やはり理解できていない部分があるようだと判断し、再度センテンスのレベルに降りる(H)。それでもまだ理解できていないようなので、語句のレベルまで降りる(I)。その後、センテンスと語句のレベルを行き来して下位レベルの理解を図り(J,K)、最終的に、当初の発問であった主題の理解へと戻る(L)、というようなことです。

また、「ボトム・アップ寄り」に関しては、次のようなプロセスが想定できます。まずセンテンスの意味を問い(A)、生徒が適切に解答できたので次のセンテンスに進む(B)。そこで生徒がうまく答えられないので語句のレベルを問うて(C)、理解が達成できたので、再度センテンスのレベルに戻る(D)。そのプロセスを繰り返しながら意味を理解していく(E〜G)。全てのセンテンスの意味が理解されたので、次にパラグラフ単位での内容を確認し(H)、さらに文章全体の概要把握を図る(I)。そこから発展させて、表面上の言葉に表れない言外の意味を探り(J)、文章の主題、そして筆者の意図へと迫っていく(K,L)。

どちらも現実的に可能な授業展開ですが、時間の制約から、だいたい上図のIぐらいの時点で終了せざるを得ないことが多いのではないかと思います。

となると、どちらにしても、どことなく不完全燃焼感の残る授業になってしまいます。けっきょく、最終的には、上述したように、ある程度の内容を省きながら、その都度授業の目標に合うようになんとか調整する、というのが現場の判断になります。また、どうやっても授業を直線的には展開することはできず、生徒の不理解をキャッチした時点で、扱う要素のレベルを下げ、またそれを上に戻すという上下の動きが生まれます。そうすると、「今は概要把握、今は文法理解」というようにクリアな分割は不可能で、どうしても昔ながらの(文法訳読的な)泥臭い展開が、少なくとも部分的には発生せざるを得ません。

そういう中で、なんとかその都度、状況に応じてやり方を選んでいかなければならないわけで、そういった苦しい判断が「読むこと」、特に「内容理解」の指導にはついてまわるわけです。

というと、「そんな難しいこと言わずに、普通に我々が文章を読んでいるプロセスをなぞるように指導したらいいんじゃないの?」という声が上がるかもしれません。たしかに、素朴な感覚としてはその通りなのですが、ことはそれほど簡単ではない、というのが実情です。

授業場面を離れ、実際に一読者として文章を理解する際のプロセスを想像してみると、下図のようなものが考えられます。

     

まず、その文章がだいたい何について書かれているかということは最初からわかっていることが多いと思われます(A)。また、小見出しなどが付いていれば、それらを手がかりに文章の概要を予測することもできるでしょう(B)。その上で最初の1語から読み始め(C)、1文ごとの理解を積み重ねつつ(D)、全体を読み通し、全容の把握をします。また、部分的に理解できない箇所があった場合(D,F)は、より下位の要素の理解を確実にしたり(E)、その文章の主題や言語外知識を参照したりしながら(G)理解しようと努めます。そうやってセンテンスレベルの理解を積み重ねつつ、徐々にパラグラフの理解、概要の理解へと進みます(I,J)。そうするうちに、表面上の言葉に表れない筆者のメッセージに気づくこともあるでしょう。(K)。そういった、語句やセンテンスから言外の意味や主題までの理解を総合して、最終的に、けっきょく筆者は何を言わんとしていたのか、何の目的でその文章を書いたのか、ということが明らかになります(L)。

どちらかと言うと「ボトム・アップ」に近いようにも思えますが、最初の部分は「トップ・ダウン」の要素も持っています。また、いつもいつも上のようなプロセスをたどるわけではなく、スキーマが充分にある場合は、ほとんどボトム・アップの処理がなくとも文章が理解できてしまいますし、逆に、全くスキーマがない状態では、かなりボトム・アップの処理が必要になります。さらに、第2言語で読む、となると、スキーマはあるけど下位要素の理解がうまくできない、などのように、より要因が絡み合って複雑な状況が生まれます。

さらに、生徒集団内のスキーマ差や言語能力差なども要因として加わってきますから、事態が単純でないことは明らかです。けっきょく、「トップ・ダウン」で行くにせよ、「ボトム・アップ」で行くにせよ、授業過程において、扱う要素のレベルに上下の動きが出てくるのは避け得ないことで、昔から人々が直感的に行なってきた「文法訳読式」という形に近い局面が生じるのは仕方のないことではないのか、と思えてくるのです。それを避けようとすると、途端にどこかに無理が生じてくるように思われます。


以上が、私なりの「内容理解は難しい」という悩みの自己分析、といったところです。冒頭で述べた「内容理解はどのようにされていますか」という質問をする人が、もし本当に「内容理解」の進め方で悩んでいるとすれば、その1つの原因は、このような解消しようのないジレンマをなんとか解消する方法があるのではないかと期待してしまっているところにあるのかもしれません。



さて、「読むこと」の指導で悩んでしまうとき、どうしても引っかかってくる問題があります。本記事でこれまで述べてきたことにも関係の深いことです。
それは、

     「学習者にとって、「読むこと」の技能の学習は、授業のどの段階で生じるのか」

ということです。

「トップ・ダウン」にしろ「ボトム・アップ」にしろ、その指導プロセスを取るからには、それが学習者の「読むこと」の力を伸長させると考えるからです。しかし、実際のところ学習者が「読むこと」の力を伸ばすのは、授業のどういった局面においてなのでしょうか。

言語が複合的な技能であるがゆえに、単純明快な答えが出る問いでないことは充分に承知しているつもりです。しかし、そのうえで、あえて言うならば、上に図示した「上下の動き」に、それを考えるヒントがあるのではないかと私は考えています。

この問題を次の記事『「読むこと」の技能の学習はどこで成立するか』で扱いたいと思います。本記事と連続した論考としてお読みいただければ幸いです。

トップページに戻る