2000.8.12. 『コミュニカティブな英語授業のデザイン』 井上和子(監修),フランシス・ジョンソン(著),平田為代子(訳) 大修館書店 2000年 1800円

本書を店頭で見かけたとき、最初は、なんとまあベタなタイトルだろう(笑)、と思いました。Communicative Language Teaching(CLT)の概念を普及させようとしていた一昔前ならまだしも、2000年になってこのタイトルで本を出すというのは、「センスねえなあ(笑)」と思ったわけです。が、ちょっと考えて、この時期にこのタイトルをつけるということは、逆に何かこだわりがあるんじゃないか、と思い至り、本書を手にとってみました。

で、やはり思ったとおりでした。「監修者まえがき」に、著者の次のような問題意識が述べられていました。

  「コミュニカティブな言語教育は、近ごろ、第二言語および外国語の教育方法論の基礎として広く認められてきている。一方では、さまざまな状況や目的に応じてあまりに多くの著作が代に出たために、教師や研究者がその本質的な焦点を見失ってしまう危険性がある。『コミュニカティブ』という言葉は流行語になってしまい、その地位がかえって危うくなっている。」(p.v)

「コミュニカティブ」という語が、それが本来意図するところを離れてずいぶんいいかげんな用いられ方をしている、という問題点は最近になって指摘されるようになってきていたわけですが、1冊の本という形でまとまった内容が公刊されたのは、あまり例がないと思われます。本書が初めてかもしれません。

さて、本書の内容ですが、サブタイトルに「教室づくりからテストまで」とあるように、英語授業を「コミュニカティブ」にするとはどういうことかを、教室の設計からテスト法まで、神田外語大学と神田外語学院での実践例を紹介する形で具体的に示しています。ただの理想論ではなく、日本の大学と専門学校という身近な場所での実践を提示して、「コミュニカティブとはこういうことさ」(「紅の豚」風)を教えてくれます。このことは、単なる概念整理に終わらない、大きな説得力を持つと思います。

第1章「コミュニカティブな言語学習の起源と基本原理」において、CLTの基本的な考え方を、「相互作用」対「入力」、「帰納的学習」対「演繹的学習」など8つの対立概念を通じて紹介(というか復習)します。

たとえば、「課題(task)」対「テクスト」という概念対立を引き合いに出して次のようなことを述べています。

  「つまり、課題とは学習者の目的を『テクストの正しい使用より上位に置いた』教室活動であると考える。言い替えれば、学習の目的は『正しい』英語を作り出すことではなく、『何かをすること』、実社会での活動を完了することである。」(p.12)

ようするに「英語を正確に用いる」ことが最終目標ではなく、実社会においてそうであるように、「何かを達成する」ために英語を使用し、その過程で必要なだけの正確さを身につけていく、という考え方です。これは本書の述べるようにCLTの基本的な考え方であり、CLT以前の考え方と好対照をなす、魅力的なものでしょう。

第2章「コミュニカティブな言語学習の教室作りと運営」においては、コミュニカティブな言語学習を達成するには、教室環境もデザインしなおさねばならない、との問題意識から、教室での学習者や物品の配置をどのようにするか、というアイデアや、そのような教室での授業の展開方法、学習者と指導者の役割、などについての議論が展開されています。

個人的にはこの章を最も興味深く感じました。まず、本章冒頭の次のような言葉に私はギクッとしました。

  「教室作りは、クラスでどんな学習と授業を行うのかによって異なる。教師中心の教室では、教師と教師の行動に注意が集中するので、全ての学生が常に教師の行動を見ることができ、教師の話を聞くことができるようになっていなければならない。学習者中心の教室はこれとは異なる作り方を必要とする。」(p.29)

  「これらの教室(山岡注:教師中心の教室)では、学生用教科書と教師用ガイドの存在が前提されており、それ以外の教育補助具は教師の必要に応じて教室に持ち込まれる。」(p.29)

いくら発問や授業の構成をいじってみても、それに合致した教室環境が準備されていなければ、結局は空回りするだけ、ということでしょう。本章では、教室の物理的環境を何種類か図入りで提示し、それぞれに説明を加えています。

このような視点はとても大切だと思います。理念を物理的にはどのように具現化するのか、そしてそれをどれだけ定式化できるか、を追求することはとても有意義だと思います。「クラスの実情に応じて」とは言うものの、実情に応じて変更できる部分と、どんな状況でも譲れない中核の部分とは分けねばならず、「コミュニカティブ」を追求するならこれだけの教室環境は確保しよう、というひとつの目安を本章が提示しているように思います。

他にも、ひじょうに重要な提言が見られるように思います。

  「クラスは、1つのタイプの活動から別のタイプの活動へすばやく移行できるように、十分柔軟性をもって組織されていることが望ましい。そして、これを助けるために、学生達が固定のグループまたは半固定化したグループに分けられていることが望ましい。」(p.40)

ずいぶんさらっと述べていますが、ひじょうに重要なポイントではないかと思います。このような点を実現するためには、英語教育学プロパーの知見だけでなく、より広く教科教育学あるいは教育学一般での理論や実践を取り入れることが重要になるでしょう。つまりは、CLT実現のためにはかなり視野を広く持たねばならないということだと思います。

また、学習者自身が学習に対して責任を持つこと、そしてそのために学習者のトレーニングが必要であること、などが説かれています。もちろん、これらの主張には、著者たちの実践による具体的な裏づけがなされています。

学習者をトレーニングし、責任を持たせるためには、おそらく多大な痛みが指導者側に伴うことと思います。しかし、CLTを口先だけでなく実現させるつもりなら、その痛みを受ける覚悟が必要である、ということが著者たちの努力から伝わってくるように思います。

さて、第3章「コミュニカティブな言語学習活動の実例」では主に教材について述べられており、そこでは、学習者に「選択」の余地を持たせることの重要性などが説かれています。また第4章「コミュニカティブな言語学習とテスト」では、CLTにおけるテストがいかなる特徴を持つもので、どのように具現化されうるのか、が述べられています。

このように本書は、著者達の実践を通じた具体的な提案と共に英語授業がコミュニカティブであるとはどういうことか、を丁寧に整理して教えてくれます。著者たちの問題意識にもあったように、「コミュニカティブ」という言葉がむやみに氾濫している現在、本書が行っているような、具体的な実践例を伴った概念整理は、ひじょうに意味のあることだと思います。

さて、ここまで本書の良いところを見てきましたが、批判すべき点もいくつかあるように思いますので、指摘しておこうと思います。

まず、これは著者たちの責任ではないのですが、本書の提示する実践例が、外語大学、あるいは外語専門学校におけるものだということです。本書の情報によれば、神田外語大学では応用言語学の修士号を取得している20名のネイティブ・スピーカーが英語の授業を担当しているとのこと。それだけのスタッフに恵まれていて、しかも外大ということで学生の方もそれなりの気構えを持っている、しかも上級学校への進学を心配する必要がない学生たちであり、むしろ留学等への関心のほうが高いであろう、という状況でなされた実践に、どれだけの一般性があるかということがやはり気にかかります。

私はそれだからといって著者たちの実践にケチをつけるつもりは毛頭ありません。著者たちの実践にはおそらく多大な時間と労力が費やされているであろうと思われ、それ自体は敬意に値することだと思います。それに、将来的に高校のカリキュラムにおいてもこれらの実践と同じようなことができる余地が生まれるかもしれませんから、著者たちの実践は意味のあることです。

ですが、どうも本書を読んでいると著者が、「どうだ、自分たちはすごいことをやってるだろう!」というような雰囲気が漂ってきて、それが鼻につくというか…。まあ著者なりのアピールということかもしれませんが、本書の提案を中等教育に転移させようとするならば、おそらくかなりの労力が必要になるであろうということは想像に難くありません。その意味で、著者が自信をもって主張するほど現実は甘くないだろうな、と感じます。

また、上にも述べました「英語の正確な使用以上の目的を設定する」というCLTの基本原理についてですが、これが魅力的であるとは思いますが、問題を孕んでいないわけでもないと私は思います。

単純に考えても、英語学習・英語教授は何のために行われるのか、というとそれは「英語を身につけるため」であると言えます。英語を身につけて何をするか、はいろいろでしょうが、最終目標はとにかく英語が使えるようになることであることは当然のことです。

ということは、英語学習を行っている者というのは、一般的には「英語を身につけていない者」であります。学習者は英語が使えないのです。その学習者に対して、「英語の正確な使用以上の目的」を課すということは、実は「英語を正確に使用する」という目的と「課題を達成する」という目的の2つを課すということではないのでしょうか。

「英語使用よりも上位の課題の達成」を最終目標にしたからといって、その下位の目標がなくなるわけではないのです。とすれば、コミュニカティブであろうとすることは、必然的に学習者に過大な負担を要求することであるとも言えます。「英語を正確に使用する」ことでさえ満足に達成できない学習者に対して、そこまでの要求ができるでしょうか。英文の構造把握ができない学習者に、コミュニカティブ・タスクを遂行させるのは、指導のポイントがずれていると言わざるをえないかもしれません。

それに、目的が2段階になるということは、学習者にとって学習目標があいまいになる可能性もあります。学習目標があいまいになると、教室では混乱を引き起こすことにもつながりかねません。こういった問題にどう対処するか、まで私たちは考えておかねばならないと思います。

他にも、次のようなことが述べられています。

  「日本では、学生は日本の社会に参加できるようになるために英語を学ぶわけではない。彼等は、英国やオーストラリアや米国に住む日本人とは異なり、日常のコミュニケーションの必要性を満たすのに英語を必要としない。しかし、彼等の学習の目的や目標は異なっていても、学習方法は同じである。コミュニカティブな英語学習は、日本でも英語学習に最も適切な方法である。」(p.23)

なんとお気楽な物言いか!と言いたくなります。目標・目的が異なれば、学習法も異なって当然でしょう。ある学習法が原理的に妥当であるか否かは無関係で、むしろ学習者自身の捉え方の問題です。大学受験生の場合を見てもわかりますが、私立大学を志望する受験生の場合、私立では記述問題出題されないから、との理由で国立大学型の記述問題などは解こうともしないことがあります。どのみち測定される英語力は同じようなものなのですが、ただ単に出題形式が選択肢式か記述式か、というその違いだけで、もう「記述問題を解く」という学習法を採用しません。

学習者とは、それだけ自分の目標・目的に敏感です。いくら原理的にはどんな学習法でも英語が身につくとはいえ、コミュニカティブな目標・目的を持たない学習者にはコミュニカティブな学習法は訴求力を持たないと考えるべきです。

それに、「原理的にはCLTは妥当な学習法だから」と言ってしまうと、そもそもそこでの英語指導は「英語の使用よりも上位の目標」ではなくなってしまうので、どのみちCLTの採用は不可能になる、というジレンマもあります。

そういった観点から、どのようなニーズに対してもCLTが良い!とする著者の単純な考え方は、けっして受け入れることはできないと私は思います。

さて、いろいろと述べてきましたが、このように本書は、CLTについて基本から学習する(復習する)のにも良いし、意見の対立するところを探して議論するのにも良い本だと思います。その意味で、英語教員の専門教養(?)のテキストとして、ひじょうに良い材料になるのではないかと思います。私自身は最近「英語教育くさい」本から少し離れていましたので、けっこう良い刺激になりました。

英語教育についてある程度知った学部の3・4年生あたりの人(大学院生も!)が、「コミュニカティブってどういうことなんだろう?」と問いなおす、良いきっかけになる本だと思います。まあ、あんまり難解な理論書ではないし、半日腰を据えれば読み通せると思いますので、まだの方はお読みになることをおススメします。



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