2000.6.8. 『教育改革をデザインする』 佐藤学 岩波書店 1999年 1700円

教育界の「超有名人」佐藤学氏が、タイトル通り、教育改革をいかに「デザイン」するかについて、理論と具体的な提案を織り交ぜながら手がかりを示してくれています。「あとがき」において著者は、本書の目的について次のように述べています。

「本書は、読者の方々が当事者として教育改革をデザインし挑戦する手引きとなることを願って執筆した。一般的な『べき』論ではなく夢物語でもなく、現在の教育財政の枠内で遂行可能な改革案と、現実に私自身が関与し実現した改革に限定して提示することに心がけている。教育改革は私たちの手で達成できる、というのが本書の中心的なメッセージである。」(p.197-198)

この言葉に偽りはないように思います。本書の構成はいたってシンプルで、まず「改革」の契機となる「危機」の実態を、よくある誤解・俗説をただしながら解説します(T危機の実態)。その実態を把握したうえでいかなる方向に改革するか、の理念的な大枠を提示します(U改革の構図)。そして実際的にはどこをどのように改革すべきで、また、改革できるかを著者自身の知る具体例をもとに提案します。(V改革の指針)。そして最後に全体の総括(W改革の提言)。あまり多くない分量の中で実に手際よく教育改革に関わる問題点を整理して、かつ改革の方向性を示してくれていると思います。

まず、第T章の現状分析ですが、著者は、危機的状況にある学校が以前の「荒れ」とは異なり大都市郊外や地方都市の新興住宅地に集中していることや、「荒れる」生徒も低所得者層ではなく中間層に属すること等を指摘し、その原因を次のように分析しています。

「大都市の郊外と地方都市の新興住宅地は、都市中間層の人々が一人ひとり匿名のもとで自由な生活をおくる典型的な市民社会である。これらの地域では子どもも親も孤立しており、教師たちも孤独な中で仕事をしている。これらの地域は一見すると均質な生活空間を構成しているが、その中で階級や階層や性や人種のさまざまな差異を隠蔽しており、しかも、経済不況の影響によって新中間層の没落がもっとも激しく作用している地域でもある。さらに家族の崩壊も隠蔽されているが深刻である。…郊外の都市中間層の個人主義が、子どもや親の孤立と実存的な孤独を深刻なものとし、ニヒリズムを助長しているのである。」(p.11)

また、現在進行中である教育の多様化による自由選択の余地の増大について、次のような批判を提出して正確な現状認識を迫っています。

「日本を含む経済のグローバリゼーションによってポスト・フォーディズム(大量生産・大量消費の終焉)の時代を迎え、特殊技能を基礎とする単純労働そのものが国内から消滅しつつある。アメリカでは三〇年前に全労働者の六割を占めていたブルー・カラーが現在では一割を切るまでに激減し、より総合的で高度な知的な能力を求める労働市場へと変化している。アメリカを始め先進諸国の高校改革が、多様化を排して高水準の共通教養の教育を標榜しているのは、この社会構造の変化があるからである。わが国のように、個人の自由な選択を基礎とする際限のない多様化を推し進めれば、今後、大量の若年失業者を生み出す危険がある。いや、バブル崩壊後の高卒者の就職難を見れば、その危険はすでに現実化していると言ってよいだろう。」(p.23)

あるいは、経済資本・文化資本が二極分解を遂げつつある「教育の不平等」の現状を指摘したうえで、中等教育の複線化はその不平等をさらに助長するだけであるとして否定的な見解を示しています。

これらの現状分析・認識の段階で私はひじょうにショックを受けました。とにかく大局的な視点から議論がなされているからです。私も、教育をなるべく広く、多様な視点から捉えることができるようになりたいと思ってはいます。が、どうしても「学校の危機」「教育改革」などについて考えるときに、とかく狭量・微視的な見方しかできていないということを、著者の分析によって思いしらされました。

上に挙げた他にも「チャーター・スクール」の欠点などにも言及しており、この第T章だけでも本書を手に取る価値があると思います。

さて、続く第U章で改革の理念的方向性が示されます。ここにおいては、冷戦構造崩壊後の先進諸国における社会・教育改革の方向性として「ネオ・リベラリズム」と「社会民主主義」という相対立する潮流が存在することがまず指摘されます。そのうえで著者は、前者の流れにある「合校論」と対比させながら、後者の流れにある著者自身の「学びの共同体」論を展開しています。

本書によれば、ネオ・リベラリズムとは「個人の自由な選択と競争を基礎とする」路線であり、社会民主主義とは「多様な人々が共生し合う社会を求める」路線であると説明されています。そして、1984年の臨教審以降、日本の教育改革はネオ・リベラリズムに動機づけられ、1995年4月に発表された経済同友会による「学校から合校へ」(合校論)により、この路線による教育改革が新たな段階に突入していると著者は述べています。

「合校論」は、荒っぽく表現すれば、従来の学校の役割をスリム化し、民間教育機関などとの連携によるネットワークで置き換えていこうというものですが、著者は(1)教育の公共性を衰退させる、(2)教育の地域差・階層差を拡大する、(3)民間の教室が提供する教育の質と内容が保証されない、といった論点から批判を展開しています。

そしてその代案として著者は、「これまで国家が統制し管理してきた教育の公共的領域を地域を基礎とする人々の連帯のネットワークによって維持し発展させる」社会民主主義による教育改革を提唱しています。具体的には第15期中教審答申にも盛り込まれていた「学校と家庭・地域の連帯」などが、この社会民主主義的な要素に当たるとしています。

つまり、個人の自由な選択とそれに伴う市場原理の導入によって公教育を個人レベルでの責任の問題に還元してしまうのではなく、児童・生徒と教師だけでなく、保護者、地域住民、教育行政関係者などが相互に関係を持って学校の教育事業に参加することで、学校を「学びの共同体」へと改革していこうというのが著者の主張です。

では、そのような改革を実現させるためには、具体的にはどのように行動することができるのかを著者自身の実体験を核として述べているのが第V章です。「教師研修の充実」や「協同学習」など、いくつかの論点を見出すことができますが、私が特に印象深く思ったのが、「1人1分掌」のシステムです。

学校教育を改善していこうという動きにおいて常に教師の側から提出される不満に「時間がない」というものがあります。校務分掌の仕事などに時間を取られ、肝腎の授業の準備に労力をまわすことができないというのです。「言い訳」の部分がなきにしもあらずでしょうが、どうしようもない現実でもあるでしょう。

この問題に対して著者は、校務分掌の役割を1人1役にして、分掌や委員会の会議をなくしてしまえば、校内研修を中心に職員会議と学年会だけで学校を運営することが可能であるとしています。そうすれば、教師は授業など自分の専門職としての仕事に時間を多く割けるようになり、改革を推進する原動力を生み出します。また、教師1人1人が学校全体に対する責任感を感じるようになるという利点も指摘されています。

しかも大切なのは、このシステムが単なる理論的な可能性ではなく、実在する学校に導入して成功を収めたものだということです。既成のシステムに執着せず、組織経営のノウハウを積極的に導入することで、教育の場としての学校づくりに貢献できることがわかったわけです。

このように、本気で学校教育を改善していく心構えがあれば、有効な改善策が見つかる場合も確かにあるというのが大切だと思います。経営コンサルタント(?)など外部の専門家に協力を仰げるのであれば、積極的にその機会を利用していくべきなのでしょう。

さて、本書においては他にも、私学助成金制度の発展的見直しや、保護者の「学習参加」の実践など、著者の主張する教育改革を進めるための提案がなされています。どれも具体的な提案であり、既に試行実践済みのものも少なくありません。対応できる環境にある学校は、ぜひともそれらの提案を実行に移すのがよいのではないかと思います。

本書は、ほんとうに「ためになった」という感想です。単に私が勉強不足である、という面もあるでしょうが(~_~;)、よくまとまっているのは事実であると思います。



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