2004.12.19. 『文科省が英語を壊す』 茂木弘道(著) 中公新書ラクレ 2004年 720円


意外、と言っては失礼かもしれませんが、意外と反響の大きい本のようです。いかにも商売上手なタイトルが人目を引くというのも一つの要因でしょうが、内容に関しても最近どんどん強まる「ゆとり教育」批判に類するもので、大方の共感を呼びやすいという側面があるのかもしれません。

さて、本書に関して私がまず言いたいことは、議論がきわめて稚拙であるということです。新書という媒体の制限を差し引いたとしても、過剰な一般化や議論のすりかえ、異なる論点の混同などが多々見られ、とても論理的な考察とは言えません。文部科学省の教育政策を根本から問い直す必要性は認めますが、少なくとも本書で展開される議論は英語教育に詳しくない読者にたいへんな誤解を与えてしまう危険性を孕んでいると思われます。

まず、本書全体を通じて言葉の定義が明確でありません。たとえば「受験英語」を礼賛する記述が随所に見られますが、一貫して定義は示されません。文脈から読み取る限り「英文法」や「読み・書き」とほぼ同義で用いられているようにも取れるのですが、この「英文法」や「読み・書き」の定義もわかりません。また、「学力」「英語力」といった用語も自明のことのように用いられていますが、「ゆとり教育」路線の以前と以後ではかなり学力観が変わっていますし、定義が示されない限りは「学力が上がった/下がった」という議論ができません。他にも「英会話幻想」「英語の基礎」「伝統的な読解・作文能力」などの言葉にも定義が与えられておらず、読者として著者の主張を正確に理解することが困難です。

また、議論のすり替えも見られます。たとえば第一章「英語力低下の実態と英語教育改革」においてはTOEFLスコアが韓国・中国との比較で示されており、2国と比べて「読解力が一番劣っている」という実態を示しています。韓国・中国を引き合いに出して日本の英語教育を批判する以上、「韓国・中国の英語教育を参考にしろ」となるのが自然な議論の流れではないかと思うのですが、著者は「だから受験英語が大事だ」という主張を展開します。

上にも述べたように「受験英語」の定義がはっきりしない以上、著者の主張の適否を議論することも難しいのですが、韓国・中国との比較がなぜ「受験英語」にに結びつくのか、その論理がまったく本書では示されません。いちおう「受験英語」世代とされる30代以上では2国と同じくらいであるという記述も見られますが、果たしてそれが「受験英語」の効果であるのか、検証はなされていません。30代と言えば、企業などで学生以上に切羽詰って英語学習を強いられている可能性もありますし、単純に学習年数が増えている、あるいは英語に自信のある人しか資格試験を受験していない、といった可能性も考えられるでしょう。

同じ箇所で示される河合塾のデータについても同じことが言えます。データが示すのは、ある特定の測定法によって定義される「学力」が低下傾向にある、という事実だけなのです。果たして「ゆとり教育」の新教育課程生の「学力」測定にその測定法が適合するのか、あるいは適合するとしてもその低下傾向をもたらしているのが「受験英語」離れであると言えるのか、さらなる検証が必要であろうと私は思います。

また、「『基礎力』を日本国民全体が義務教育段階で習得しておくことは、子どもの将来にとって大きな意味があると私は考える」(p.68)と述べられていますが、その後の議論で登場するのは「新聞を読める読解力」「ビジネス英語」「日本語の普及、日本文化の発信、世界の人々の日本理解の獲得」といった観点であり、ここで言う「子どもの将来」とは、おおよそビジネスと日本の売り込みに限定されているもののように思えてなりません。しかも、ビジネス英語に関する項で「すべてのビジネスマンにとって英語が必須になっていると考えたらそれは見当外れである」(p.75)と述べられており、著者の意図する「基礎力」の実態はますます見えなくなってくるのです。

重要な論点が甚だしく混同されているという問題もあります。本書の随所で述べられるところを要約すると、著者の主張は次のようなものと考えられます。

「受験英語が全盛だった時代は、読み書きをみっちりとやって、文法もしっかりとやっていた。それが基礎的な英語力を保障していた。ところが文科省が「ゆとり教育」路線を打ち出してから、英語教育もコミュニカティブ・アプローチだ小学校英語だと、英会話幻想に毒された指導を展開するようになった。その結果、TOEFLのスコアにも表れているように日本人の英語力は低下する一方である。学校英語教育で大切なことは、いまいちど受験英語に立ち返り、文法や基礎トレーニングをみっちりと仕込むことである。」

いくつかの論点が混在していることが見て取れると思います。少なくとも、(1)受験英語、(2)ゆとり教育、(3)コミュニケーション志向の英語教育、(4)基礎トレーニングの重要性、の4つは別個の論点であると私は思います。たとえば、コミュニケーション志向の英語教育とは、ゆとり教育政策に触発されて登場したものではありません。2つは本来別個の哲学によるものなのですが、これらが関連しているという明確な説明はなされていません。あまり良い表現ではないでしょうが、いかにも素人的で、悪い意味で直感的な議論だと思います。

また、英語教育という領域についてのさまざまな誤解や理解不足が見て取れることも気になります。
たとえば、「ESL(English as a Second Language)という英語教育方法」(p.92)や、「コミュニカティブ・アプローチなどというもの」(p.112)という表現が見受けられますが、これらは特定の指導法を指す用語ではありません。

あるいは、文科省の教育政策のおかげで英語力が低下した、という議論についても、重大な問題が見落とされています。それは、現場の教員がどのような指導を行っているか、という問題です。たしかに文科省は「ゆとり教育」を推進しようとし、英語教育界はコミュニケーション志向の指導を推進しようとしましたが、それらがどれほど現場に浸透しているでしょうか。

少なくとも私が観察するかぎり、「ゆとり教育」が本来的に意図していたところを正確に理解できている教員は多くないように思えますし、特に高校では十年一日のごとく訳読式に頼る教員がいまだに少なくないように思えます。つまり、文科省の教育政策が直接的に英語学力に与えた影響は、著者が主張するほどには大きくないのではないでしょうか。

指導法が変わっていないとするならば、学習者に最も直接的な影響を及ぼすのはおそらく教材でしょう。特に学校での主教材となる検定教科書の変容が著者の言う英語力の低下を招いている可能性があります。あるいは、中学校以前において、英語学習を成功させるための、英語以外の何らかの基盤が育っていないことが英語力低下の要因になっている、という可能性も考えられるのではないでしょうか。

さらに、著者は音読などの基礎トレーニングを徹底することを主張しています。このこと自体は私も賛成なのですが、「受験英語」時代に基礎トレーニングが重視されていたわけではありません。本書ではこの点があいまいですが、仮に文法訳読コテコテの「受験英語」に戻っても音読などの基礎トレーニングが今よりも徹底されるとは期待できません。つまり、旧来の指導法しか持たない教員は、著者の言う基礎トレーニングの指導ができないのです。

だとすれば、結局必要になるのは「教員の啓蒙」という作業になると私は思うのですが、本書ではその視点がほぼ完全に欠落しています。

このように、本書においては著者の主観あるいは思い込みによって情緒的に主張が展開されており、英語教育についての議論としてはきわめて拙いと言わざるをえません。

もちろん、文科省の教育政策を全面肯定するべきだ、ということではありません。文科省の「ゆとり教育」に対する姿勢はまるで一貫しておらず、私自身現場の教員として不満を覚えることはあります。ですから著者の問題意識は充分に理解できるのです。ただ、どのような議論をするにせよ、言葉の定義は明確でなければなりませんし、できるだけ「これは自明のことでしょ」という論の進め方も避けるべきです。そういった観点から見ると、残念ながら本書の議論は、まっとうな英語教育論議の俎上には乗らないと言わざるを得ないのです。

最後に本書の良いところも指摘しておきます。
まず批判の矛先が文科省だけでなく、多くの人が英語に対して抱く漠然とした誤解に対しても向けられていることが挙げられます。

「英語ができない者からするとどれほどすばらしいことかと憧れていたことが、実際にできる人からするとこんな程度のものなのである」(p.33)
「英語自体がとびきりの価値があるのではなく、何かの能力と合体して初めてそれなりの価値を生むものである」(p.36)
「英語力という点で言えば、世界のマーケットを制覇した当時と、バブル崩壊後とでは大きな差が生じているはずがない。学生の英語力が落ちていると言っても、企業の全体レベルに影響を与えるほどにはまだなっていないはずである」(p.41)
「大体、自分が何かできなかったりする時に、それを自分の責任、自分の努力不足のせいにするのではなく、誰か他人のせいにしたり、社会のせいにしたりするのはほとんど例外なく不健全な考えであると言っていい。」(p.46)
「おいおい、日本は植民地じゃないんだよ」(p.64)
「挨拶や対応等の平易な英会話力というものは、多くの人が漠然と考えて期待しているほどの効能と必要性のあるものではない」(p.65)

きわめてまっとうな議論だと思います。

また、「ゆとり教育」が、その本来の理念がどうあれ、さまざまな議論を引き起こしている実態があるわけですから、日本全体の教育のあり方について根本的に問い直そうという点については異論はありません。たとえば、

「義務教育をベースとした、日本人の『平均的』学力・能力の高さは、絶対に失ってはならない日本の特性であると私は考えている。そして、この平均的学力の高さは、公平性の確保なしでは成り立ちえないということである。公平性をベースとする日本人の平均的学力の高さという貴重な財産を本気になって崩そうとしているのが『ゆとり教育』を進めている文部科学省であると私は考えている。この文部科学省の愚行に対して、『選択の自由という原理』のみで対抗するのは、非現実的であり、正しくないと思う。」(p.68)
という記述がありますが、これなどは、公教育の位置づけから見て文科省の教育政策が正しいものであるのか、といった問題提起につながりますし、充分に考慮に値する論点だと思います。


トップページに戻る