2011.10.11. 『生徒の間違いを減らす英語指導法 インテイク・リーディングのすすめ』 齋藤栄二(著) 三省堂 2011年 2100円

『基礎学力をつける英語の授業』(2003年)『自己表現力をつける英語の授業』(2008年)に続く、三省堂からの齋藤先生3作目です。著者である齋藤先生は言わずと知れた英語教育界のビッグネームであり、わたしもかねてより私淑しております。

齋藤先生の英語授業論は、なんと言っても温かい。

「わたしはこんなにすごいんだ。君たちもここまでおいで。」ではありません(そういう「ビッグネーム」いますよね)。

「あなたは今、ここにいるのではないですか。わかりました。わたしもそこに行ってご一緒しましょう。さあ、ここからこちらに一歩踏み出してみましょう。ほら、ちょっと光が見えてきましたよね。」そういう感じです。

いくら小中高での指導経験があるからといって、長らく大学人としてお仕事をなさってきた方が、なぜこれほどまでに中高現場の教員の目の高さから有効な次の一歩を指し示すことができるのか。中高教員に有益な示唆を与えてくれる大学教員は他にもいますが、この温かさは、in his own class と評せざるを得ません。

それに、齋藤先生がご紹介になる指導技術の多くは、「これなら自分でもできるかも」と思えるものです。授業に悩む中高教員の「ツボ」をよくご存知だなあ、と、毎度苦笑いしてしまいます。

さて、今回のこの本でも、そういった齋藤先生ならではの授業改善のヒントが随所に散りばめられています。

本書の主眼は、副題にもあるとおり「インテイク・リーディング(Intake Reading)」。どのようなものか、引用します。

まず、生徒をペアにして立たせます。片方の生徒はテキストを見ながら教科書の最初の文

   A Canadian couple took a trip to Japan.

と、もう一方の生徒に言います。言われた生徒は、それを何も見ないで、

   A Canadian couple took a trip to Japan.

と正しく復唱すればよいのです。たったそれだけの話です。

(p.60)

「え?それだけ?」と思われるかもしれませんが、本当に「たったそれだけの話」なのです。しかし、「たったそれだけの話」が、どれだけの指導哲学に立脚するものなのか、そして、どれだけの成果を生み出すものなのかが、言葉を変えつつ繰り返し丁寧に説かれています。

たとえば、哲学の部分で 「grammaticalityを育てる」という考え方が示されます。grammaticalityとは何か、という話は本書の核心に関わることなのでここでは触れません。ただ、どういうわけか「暗唱」にいまひとつ積極的な意義を見出すことができなかったわたしにとっては、「なるほど、そういうことか」と腑に落ちた気がしました。

また、Intake Reading を授業に取り入れるに当たって配慮すべきことが、時には、現場の教員に対しては言わずもがなではないかと思えるほど細やかな部分まで示されています。たとえば、教員による生徒の指名については、約6ページを費やして持論が展開されていますが、1年程度の経験のある教員ならば、ほんの数行の結論だけで同意するところでしょう。

ただし、ありきたりの一般論で話が終わっているわけではありません。たとえば、この指名の話には、生徒から教員への質問を授業にどう位置づけるかといった発展的な話題が続いており、その随所に筆者の授業論を支える哲学が表れています。

さらに、教員たるもの授業にどういった姿勢で臨むべきかという心構えの話がいたるところに顔をのぞかせるのも本書の特徴と言ってよいでしょう。次の引用は、それらのごく一部です。

基本原理は、「力をつけさせるために楽しくするのだ」ということです。その逆はありません。楽しさだけでは教育になりません。

「少し忍耐力もいるけど、先生と一緒に歩んでみようじゃないか」というのが教育じゃありませんか。

(p.135)

これだけでも齋藤先生のスタンスがわかろうというものです。

わざわざ第10章「教師もIntake Readingで力を伸ばせ」という独立の章を設けていることからもわかるように、本書では随所で教員を叱咤激励する内容が述べられています。中にはわたしなどには耳の痛い指摘もあります。しかし、それでもネガティブな気分にならないのは、まさに「齋藤先生に言われるなら」という思いになるからです。それも、このような、地に足の着いた哲学あればこそ。

全体を通じて主張はシンプルで一貫しており、書き方も体裁も読みやすいので、ものの1〜2日で読んでしまえると思います。生徒の力がつくように授業を改善したい、でも大掛かりなことをやるには準備不足、という教員には、とりあえずの取っ掛かりとしてfeasibilityの高い提案ではないでしょうか。

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さて、ここから先は、本書を読んでわたしなりに考えたことです。もう少し偉そうに本音を言えば、本書の「取り扱い上の注意」です。

p.85から、「モジュールの考え方」と題して、授業の構成をどのように作るかが論じられています。「モジュール」とは、基本的には「帯学習」と近似のものだとわたしは理解しました。ただ、「帯学習」が、必ずしもその単元の主教材(≒教科書)とは関係のない内容を継続していくイメージがあるのに対し、「モジュール」とは、どの単元でも、主教材について同じ種類の学習活動を継続するというイメージかと思います。

そして、「新教材の導入」→「展開」→「定着」という授業のプロセスの中で、「どの部分で『聞く力を伸ばすのか』『話す力を伸ばすのか』『読む力を伸ばすのか』『書く力を伸ばすのか』という手だてを組んでいるか、という視点から授業の再検討をする」(p.87)という提案がなされます。

その一方で、次のようなことも述べられています。

「今日は前置詞の指導をした」とか「スペルの間違いについて指導した」などというように、項目を意識している教師はあまりいません。(p.58)

 「この単元では、どのような力を育てることを目標とするのか。」
→「その単元計画の中で本時はどのような項目を指導することで、単元目標の達成に貢献するのか。」

という順序で授業を企画するというのは最近強調されている考え方です。

「要するに、語彙と文法と発音教えて、音読とか暗唱で練習してれば、そのうち英語の力が付いてくるでしょう」という、なんとなくのボトムアップ的な発想ではなく、それぞれの単元で明確に、「この単元ではこのような力を付ける」ということを明確に設定して、その単元が終わった時に生徒にしてほしいパフォーマンスを想定し、そのパフォーマンスが可能になるように指導を行う、ということです。(細かいことを言えば、ある単元の評価は必ずしもその単元の学習が終わった時点でやらなくてもいいので、指導と評価の間にタイムラグがある場合はありますが。)

そういう明確な目標=評価規準の設定をしたほうが、実際に使う技能としての英語力の育成は促進されるのではないかということです。

そういう考え方からすると、一見、上のような言い方は時流に沿ったものであるように思われます。

しかし、ここで言う「項目」とは、たとえば本書が提示するところによると、次の8項目です。(これらは、生徒がよく間違える項目ということです。)

(1) 日本語の引力圏 
(2) be動詞の欠落 
(3) 主語の欠落 
(4) 冠詞の使い方の混乱 
(5) スペルの問題 
(6) 語順の間違い 
(7) 動名詞・不定詞の使い分け 
(8) 前置詞の役割がわかっていない
(p.36)

いずれも言語材料に関することで、評価の観点で言えば、「言語や文化についての知識・理解」に分類されるものでしょう。最近強調されている単元計画の考え方では、「知識・理解」はあくまで目標の一部であって、むしろ「(外国語)表現の能力」「(外国語)理解の能力」に分類されるような、スキルを目標として設定することが想定されています。

また、毎時間似たような procedure を繰り返すのではなく、単元の最初の方は、目標とするスキルを視野に置きつつ言語材料の学習に重きを置き、単元が進むにつれ、よりスキルを意識した言語活動に重点を移していくという「スラッシュ型」の単元計画の考え方が並立するものとして提唱されています。

そういった、単元計画に関する skill(s)-based でスラッシュ型の考え方に照らすと、本書で取り上げられている項目は、かなり限定されたものと言わざるを得ません。

また、これらの項目の定着が思わしくないという問題への対処法として Intake Reading が提唱されるわけですが、その導入として次のことが述べられています。

「正確な英文を生徒の脳の中に沈める」ということを、英語の授業のねらいの上位に位置づけて指導の仕方を組んできた先生方はどのくらいおられるでしょうか。そんなに多くはいないと思います。イヤ、それは酷な言い方かもしれません。「正確な英語の文を習得させる必要性はわかっているが、その指導の仕方がわからない」というのが先生方の本音ではないでしょうか。(p.65)

さらに、Intake Reading において教科書を活用することについては、次のように述べられています。

「教科書を食いつくせ」という言い方を私がすると、おおかたの先生方はかなり印象深いようです。・・・(中略)・・・今、全体として見れば、英語の教え方の上で「教科書離れ」の方向にベクトルが向いています。脚光を浴びる授業ほど教科書の影が薄く、ゲームも含めて多彩な、聞く、話すを中心としたいわゆる実践的コミュニケーション活動が展開されることが多い。(p.115)

そこで私の解決法は、「優れた英文の集まりである教科書をもっと利用して、生きて作用する文法性をなぜ生徒の中に育てないのか」というものです。(p.117)

これらの部分を読む限りでは、本書が提唱する授業のあり方は、skill(s)-basedな授業論とは異なり、言語材料の練習を最優先とし、教科書<を>教えることを良しとするものであるように思われます。そのように見えてしまいます。

しかし、おそらくそうではない、ということをここで述べておきたいと思います。

本書に、次のような文言が見られます。

実践的コミュニケーション能力、なかんずく「自己表現力」という建物を建てようとしても、その土台となる生徒の英文が上で挙げたようなグラグラしたものでは、その上にしっかりとした建物を建てることはできません。(p.3)

しっかりとした、自己表現力をつけるための土台を作る強力な方法を、皆さんに贈ります。(p.4)

今、本書で取り上げているのは Intake Reading ですので、module の考え方で Intake を取り入れるということです。(p.87)

(太字下線はすべて引用者による)

つまり、本書はあくまで英語授業を構想する大きな枠組みの中の一部について有力な提案を行っているものだということです。そこを取り違えてはならないと思うのです。

特に、skill(s)-basedで「スラッシュ型」の単元計画という考え方は、まだまだ浸透しているものではありません。もちろん、この考え方が正しいものかどうかは今後検証されていくでしょうし(いや、されねばなりません。今まで検証されずに廃れていった考え方のいかに多いことか)、他の流儀も当然ありえるでしょう。

ただ、従来の、言語材料・学習活動中心の発想を相対化してみようというのが現在の英語教育界の挑戦の一つではあるでしょう。

そういう現状を踏まえると、本書に学ぶ際は、 Intake Reading の適用範囲はどこまでかを意識しておくことが必要かと思いました。

 

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