2010.2.12. 『英語教育が亡びるとき 「英語で授業」のイデオロギー』 寺島隆吉(著) 明石書店 2009年 2800円

ともかく「重い」本でした。

  「お前は何者か」

  「お前は何のために英語を教えているのか」

これを徹底して問われているように思いました。

英語の教員としては避けて通れないはずの問い。しかし、本当に正面から向き合うには、とてつもない覚悟が要る問い。私は半ば無意識のうちに避けてきたところがあるかもしれません。少なくとも現行の学校制度の枠内で仕事をする限り、わざわざ自分でそんなことを考えなくても、「学習指導要領の言うとおり」「文部科学省の言うとおり」と言って制度的権威に代弁させてしまえば済んでしまいます。

いや、済んでしまうどころか、むしろ制度が与える定義や制度が求める規準にできる限り沿った実践をすることこそ、制度の内側で仕事をする者には推奨されることでしょう。制度的に行われる研究授業がその典型例です。

しかし、単に生活の糧を得るためと割り切って、どんな制度的要求に対しても融通無碍に応じることを身上とするのならばいざ知らず、多少なりとも自分の人格とプライドを賭けてこの仕事に携わる者にとっては、自分自身を定義する作業は本来不可欠なもののはずです。

にもかかわらず、消極的留保ストラテジーを用いてその作業を避けようとするのは、そうすることで、「自分がなりたい自分」と「制度が求める自分」の相克に引き裂かれそうになるのを、なんとかやり過ごそうとするからかもしれません。

しかし、本書は、まさにそういった「自分は何者か・何者であるべきか」といった自らの存在に直結する部分をえぐってきます。

  「自分自身の定義を制度に預けてしまってはいけない」

  「自分が何をなすべきか考えることを放棄してはならない」

そう叱咤されている思いがしました。

本書が公刊されてから既に約半年が過ぎ、その内容は確実に反響を呼んでいるようです。本当にいろいろな論点が重層的に織り込まれた論考ですから、一言二言で簡単にまとめてしまうことはできないのですが、やはり特にインパクトが大きいのは、副題の

  「英語で授業」のイデオロギー

に関することでしょう。

現場の教員の中には、「授業は英語で行うことを基本とする」と全国に号令を下した新学習指導要領についての批判的考察に共感を覚える人が少なくないことと思われます。

しかし、「お上」への反発を本書に代弁してもらって溜飲を下げたとしても、では、その溜飲を下げている自分とはいったい何者なのか?本書はそこまでの問いを読者に突きつけてきます。単なる文科省批判の書のつもりで読んでいると、気づかぬうちに、実は返す刀で自分も斬られてしまう。それだけの覚悟をして読まねばならない著作だと私は思いました。

このあたりのトーンは、本書の構成によく表れているかもしれません。

  第1章 英語にとって政治とは何か

   1 国際理解と英語教育

   2 メディア・コントロールと英語教育

  第2章 「英語で授業」は教育に何をもたらすか

   1 「もうやめにしませんか」−朝日新聞「耕論」を考える

   2 英語教師の教育環境・労働条件・教員養成

   補節 「英語で授業」を再考する−松本茂氏の意見に即して

  第3章 新指導要領で言語力は育つのか

   1 新指導要領に欠けている「誠実さ」と「人間への優しさ」

   2 「母語を耕し、自分を耕し、自国を耕す」外国語教育を

   補節 偏向教育としての外国語教育

第1章が「政治」です。いきなり「政治」と来ると、ある立場の人は特定のイデオロギーを盾に「戦闘モード」に入るでしょうし、ある立場の人は、そのような話題をできるだけ避けたいと思うでしょう。政治の問題を冷静に議論し、英語教育論の中に有機的に位置づけていくという文化は、まだ日本の英語教育界にはないように思います。少なくとも私に関して言えば、英語教育における政治論は得意ではありません。

しかし、考えてみると、実は(というか、当然なのですが)政治の問題は英語教育にとって本質的なもので、本書が第1章に「政治」を持ってきたのも驚くには当たらないことだと思うようになりました。それは、次のような理由によります。

まず、英語教育の専門書には、英語教育を独立した体系を持つ世界(モジュール)と捉え、その枠内での各論を展開するものが多いと思います。専門書とは元来そういう性質のものですから、それ自体は当然のことでしょう。しかし、もし英語の教員がそのような本を読んで学ぶ中で、英語教育という世界にのみ目を奪われ、それを取り巻くさらに大きな世界に意識が向かないように方向付けされてしまうとすれば、それは問題です。

たとえば、学校英語教育の場合、英語は時間割の中の数時間に過ぎず、英語の授業以外の時間は、生徒たちは他教科の学習や特別活動などに精を出しています。あるいは、学校外でも、家庭での生活やアルバイト、他校の友人とのつきあいといった私生活に多くの時間とエネルギーを費やします。つまり、生徒にとって英語など生活のごく一部でしかありません。

そのような状況で英語の学力が育つ過程は、当然のことながら、それ自体が独立したものではありえず、それを下支えする種々の要因の影響を強く受けるものです。ここにおいて、すでに英語教育の外の世界があることがわかります。

また、学校は政治的な意思に影響されるものです。時々の政権の意向が教育政策に反映されることもそうだし、そもそも現行のような学校制度自体が政治的に規定されているものです。しかし私などは、えてして現行の制度を所与のものとして、その枠の中での思考にとどまりがちです。

しかし、諸外国の学校制度を見てみれば、日本のものとはずいぶん違うものがあることがすぐにわかります。たとえば、そうやって現行制度を相対化することはできるわけです。これも、外の世界です。

さらに、その政治的意思すらも、他からの影響を受けない独立したものではありません。たとえば、国内・国外の諸々の利害関係に影響されて、必ずしも為政者の哲学・信念に基づかない教育政策が実行されることがあります。そのような政策は、教育の本質にとっては全く重要でない要因が働いた結果によるものなので、教育の論理から言えば妥当性に欠けることがあります。

そのような場合、表面的な教育政策のみを取り上げて論じても何ら現実的な解決は得られるものではありません。しかし、為政者が政策として語る場合は、あくまで巧妙に教育論を偽装して語られますし、それを伝えるメディアも、多くの場合は政策の背景をえぐることなく、表層的な価値論に終始します。巷の教育論が迷走して何ら実効性のある結論にたどりつかないことが珍しくありませんが、それは、このような教育政策の外の世界への認識を欠くことに一因があるようにも思われます。

このように、英語教育という営みは、(内と外という分け方をするとして)その外の世界と密接な関係を持って、あるいは一つの連続体を成して行われているものです。そして、そうであるからこそ、英語教育の世界内部の問題を解決するには、外の世界についての正しい認識が必要になるわけです。

しかし、当の英語教育内部の専門家たる英語の教員に、そういった認識が欠けている場合が往々にしてあるのではないかという危惧があります。もちろん、私がそうだからといって一般化するのは乱暴に過ぎますが、往時の用語で言えば「ノンポリ」というか、イデオロギーにはあまり関わりたくないという感覚は、特に若い世代の教員には少なくなからず共有されているように思います。

英語教員の場合、英語指導の技術論には熱心で、いろいろ本を読んだり研修会に出かけていったりしてよく勉強するのだけれども、そもそもなぜ学校で英語を教えなければならないのか、学校で英語を学ぶことで生徒はどのように成長していくのか、といったことにはわりと無頓着な人は珍しくないのではないでしょうか(いや、まるで私のことなのですが…)。

そういった点について著者は、「英語教育における三つの仕事・三つの危険」のうち、「三つの危険」として次を挙げます。

  (1) 教師の自己家畜化

  (2) 学校の自己家畜化

  (3) 国家の自己家畜化

「自己家畜化」とは穏やかでない用語です。これが何を意味しているかについては、ぜひ本書と、同著者による『英語教育原論』(明石書店,2007年)をお読みください。それが最良の選択だと思います。ただ、著者をしてそのように表現せざるを得ない危機的状況が、既に日本に現出してしまっているという認識はよく伝わるのではないでしょうか。

(私は、この書評を書きながら『英語教育が亡びるとき』を読み返すうちに、未読だった『英語教育原論』をどうしても読まなくては気が済まなくなってしまったので、さっそく取り寄せて、切れ端の時間を使いながら読んでしまいました。ここで内容を紹介する余裕はありませんが、これを読んで『英語教育が亡びるとき』がよりよく理解できたように思いました。まさに「原」論です。)

ここでは私なりの理解で簡単にまとめますが、「三つの危険」とは、

「英語というフィルターを通して世界を見ることにより、世界を歪んだ形で認識するようになってしまい、その結果、英語教師としての仕事にも好ましくない影響が及ぶこと」

と表現できるかと思います。

本書で論じられている中では「アメリカのような国にしないために英語を学ぶ」という表現が最もわかりやすいでしょうか。

日本では第二次大戦後、否応のない状況の中、アメリカの強い影響を受けてきました。社会的な状況を考えればそれは不可避のことであったでしょうから、是非もないことです。

しかし、そのように受動的にアメリカの影響を受ける一方で、日本人自身が能動的に、アメリカ的な価値観や思考様式を自らのものとしようとしていることについても、「是非もないこと」と片付けることができるでしょうか。英語を学ぶことが、実はそのような能動的なアメリカへの同化を推し進めているとしたら、それは是認できることでしょうか。

本書が問題にしているのはこの点です。英語を学ぶ中でアメリカを理想の国とする心性が生まれ、物心両面でアメリカに追従していく流れが強化されているとしたら、そこに危険はないのか、という警鐘です。

この点について本書は、「メディア・コントロール」という視点から、いかに日本がアメリカ寄りのメディアの偏向報道の影響を受けているかを、具体的な事実を挙げつつ例証します。たとえば、アメリカが大義名分を掲げて仕掛けたはずのイラク戦争。主要なメディアでは必ずしも大きく報じられることはなかったその欺瞞性について解説がなされています。

英語教育とイラク戦争など、あまり関係がないことのように思われるかもしれません。しかし、そのように偏った情報にさらされて世論が誘導されてしまっている中で、英語教育だけが中立的・合理的な思考に基づいて目的が設定され、遂行されることなど期待できるでしょうか。

ケネディ大統領の就任演説が小学校の授業での音読・暗唱の教材となっていたり、オバマ大統領の就任演説が、またたくまに市販の教材として人気を博したりする状況を見ると、そこには批判的思考のかけらも感じられません。政治家の言葉を教材にしてはならないなどと言うつもりはありませんが、アメリカ大統領の演説であり、なんとなく耳障りの良いことを言っているというだけで安易にもてはやされることに比して、他国のリーダーたちの言葉がほとんど教材になっていないことを思えば、いかに日本の英語教育・学習環境がアメリカに偏っているかがわかろうというものです。

そのような状況において、英語の教員は何をなすべきなのでしょうか。そもそも英語を教え・学ぶ目的とは?生徒にどのような英語力を身につけさせるべきか?英語を通じて、あるいは英語を教えること・学ぶことを通じて、何が達成されるべきか?考えれば考えるほど、答えは自明ではなくなってきます。

この点が、著者が英語教師の「三つの仕事」として提唱する次のことがらに関わってきます。

  (1) 英語だけが外国語でないことを教える。

  (2) 自分の体験を通じて「英語がどう役立つか」を教える。

  (3)  英語の「水源地」「学び方」を教え、「転移する学力」を育てる。

のっけから「英語だけが外国語でないことを教える」です。英語という言語をいかに効果的に教えるかに心を砕いている教員にとっては、まったく虚を衝かれる主張です。

しかし、上述のような状況を考えるにつけ、たしかに、英語を教えつつ、英語に毒されないよう学習者を導くことは、英語の教員にとって大切な仕事であると思えてきます。

このように、第1章で「政治」を論じるのは、一見英語教育にとって遠回りなようでいて、実は英語教育そのものに直結してくるからこそでしょう。議論の具体的な詳細については、ぜひ本書ををお読みいただき、皆さんご自身でお考えいただきたいところです。

 

さて、続く第2・3章では、高等学校の新学習指導要領について論じられています。特に、「授業は英語で行うことを基本とする」という宣言に対する批判が展開されており、新指導要領に対して不満を抱く教員にとっては、胸のすく思いがすることでしょう。

議論の詳細はここでは紹介しませんが、というよりも簡単には紹介できないくらいのボリュームがあるのですが、一貫して感じられるメッセージは、「現場を見よ」「弱者を見よ」ではないかと思います。

このことに関して少し寄り道をします。

次の記事において私は、「授業は英語で行うことを基本とする」を巡る種々の議論について論点整理を試みました。

  「『授業は英語で』問題の対立軸を整理する」

  http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/Jugyou_Eigo.html

この記事で私が提案した4つの論点を再掲します。

  1.「授業は英語で」を強制することが適切か否か

  2.「英語で行う授業」に求める内容は、「英語でできる範囲」にとどめてよいのか「日本語でできる範囲と同じかそれ以上」なのか

  3.コミュニケーション能力育成という目的に照らして「授業は英語で」は指導原理として有効か否か

  4.「授業を実際のコミュニケーションの場面とする」という方針が適切か否か

さて、本書の議論はこれらの論点のどれにも関連してくるものですが、特に柱となるのは1の「強制の適否」であると私は読みました。

つまり、英語指導の技術論としては英語で進める授業があっても一向にかまわないが、教育現場の多様な状況を考えると、一律に強制することは不適切であるという立場です。

強制が不適切とする論拠としては、そのような授業が成立しえない教室もあるという授業論・技術論もさることながら、そのような教育政策を受け入れる側の労働者=教員が疲弊しきっていたり、政策的な要求に耐えられるだけの条件がシステムとして学校現場に備わっていないという、より根源的な問題を指摘する議論が強く押し出されています。

たとえば、PISA調査で一躍脚光を浴びることになったフィンランドや、その他の諸国を引き合いに出して、クラスサイズや教員の労働条件を、専門的な研究に基づいて日本と比較しています。

このあたりの詳細な情報もぜひ本書から直接お読み取りいただきたいところなのですが、1つだけ例を挙げると、1クラスに生徒が何人までであれば「少人数学級」と呼べるかという話には正直言って度肝を抜かれ、いかに自分が無知であったかを恥じました。

私などはだいたい40人+αのクラスで担任や授業をやってきましたから、たとえば公欠などで出席生徒が35人ほどになっただけでも教室空間に余裕を感じますので、「30人学級」と聞けば、「おお〜、少ないなあ〜!」という感覚です。しかし、本書が紹介する種々のデータを見るにつれ、その感覚がいかに「お人よし」なものであったかを痛感せざるを得ませんでした。

このように、文科省が要求する「授業は英語で」という主張に対し、その中身に引きずられて技術的な議論を展開するのではなく、その主張が見落としている、あるいは意図的に見ないふりをしている、そのような授業を可能にする「土台」の部分に光を当てることにより、いかにこの主張が現場にそぐわないものであるかを論証しようとしています。

著者の議論の総合性を損ねることを恐れるため、あえて断片的な引用は行いませんが、このような議論の中で、単に理念的に批判を展開するのではなく、具体的な対案も示されていることは、注目すべきことでしょう。具体的な実践経験を基盤に持つ著者だからこそ、そういった具体案にも説得力が出るというもので、新学習指導要領に対抗する有力な議論となっているように思います。

とはいえ、著者の新学習指導要領に対する批判には、やや行き過ぎではないかと気になる箇所もありました。

端的に表れている部分としては、新学習指導要領の「言語活動を英語で行う」という文言が、授業の全てを英語で行うかのような印象を与えると主張し、そこから「授業は英語で」問題への批判を展開している部分が挙げられます。

これは言葉の主観的な解釈の問題ですから、著者のような印象を持つ人もいるだろうということはわかります。また、私もパブリック・コメントで要望したように、公的な文書には、誰が読んでも理解できる平易な言葉遣いが求められると思いますので、解釈の幅を許すような書き方自体にも問題があると思います。

ただ、それを差し引いても、論の進め方はちょっと強引かな、と思いました。

私は「言語活動を英語で行う」と言われれば、それはすなわち「生徒が」行う、と解釈していました。じっさい、学習指導要領で示される「言語活動」の具体を見れば、生徒が取り組む活動であることはわかります。つまり、「英語」の授業なので「英語で」行うということ、もし「中国語」の授業であれば「中国語で」と置き換わるということ、ただそれだけの意味だろうと私は思いました。

もちろん、言語活動を導くには教員の説明や指示が必要ですから、「言語活動を行う」と言えば必然的にそれらの要素も伴うわけですが、だからといって、「言語活動を英語で行う」という文言だけでそこまでを縛ろうとしているようには、少なくとも私には思えません。たとえば、学習指導要領にこのように書かれているからといって、定期テストでの指示文まで英語で書けと言っていると解釈すべきかというと、おそらくそうは考えないのが普通ではないかと思われますが、それと同列のことです。

繰り返しになりますが、個人の語感の問題ですから、私の解釈とて相対的なものに過ぎませんので、ここでは、公的な文書の言葉遣いは、なるべく解釈の揺れをなくすようなものにすべきだ、という指摘以上のことは言えないわけですが。

また、日本の学校英語教育は、はっきり言ってしまえば、まだまだ実験・試行錯誤の段階にあると私は思います。ですから、「授業は英語で」という指針が文科省から出されること自体は、強制云々の問題はさておき、あってよいことだと思います。

たしかに、現状を考えると無茶な要求に思える部分もありますが、では、そういう要求がまったく英語教育の質を向上させる力を持たないかというと、そうでもないと私は思っています。というのは、たとえば今でも訳読式授業は幅を利かせていますが、その「占有率」は、おそらく年々下がってきていることでしょう。代わりに、PPPアプローチを採る教員が多くなっているのではないでしょうか。

PPPも今となっては「時代遅れ」の烙印を押されてしまっているようですが、以前はそれが「最先端」であったわけで、今の最先端に比べれば古いとはいえ、一定年数遅れで英語教育界も変わってきていると言えるわけです。

現状から最先端へと一気に変革を起こすことは不可能にしても、たとえ1世代、2世代遅れであっても、確実に前進しようとする流れを止めるのは良くないと思います。「最先端」の部分では、まず先陣を切って「これならどうだ!」という理念を実践化してみて、そこでいくらか修正を行いながら、いずれ遅れてやってくる世の大部分への道筋を付けておく、というのも、大きな政策としては、ありうる考え方だと思います。

ただ、当然のことながら、そうやって前進する過程で、せっかくの過去の蓄積をないがしろにすることは避けねばなりません。

この点については本書で著者が示している、著者自身あるいはその他の先達による優れた実践には、大いに学ぶことができます。

いかに日本の学校英語教育が実験・試行錯誤の段階にあるとはいえ、これまで日本の学校という特定の条件下で着実に成果を挙げてきたやり方を簡単に捨ててしまって、ほとんど思いつきのような理念(「理論」ではないことにご注意ください)に飛びつくのは、決して賢くはありません。

また、この点に関して言うと、実はもっと根本的な問題があります。それは、「学校英語教育は成果があがっていない」という現状認識が、そもそも正しいのか、ということです。

ふつう、英語教育に関する研究や議論は、「現状では不十分である」ということを当然の前提として始まるものです。

しかし、本書や『英語教育原論』が示すところによれば、いかにPISA調査での順位が下がったとはいえ、日本の学校教育が挙げてきた成果とは相当なものであることがわかります。私たちは、「日本の学校英語教育はダメだ」という現状認識をあまりにもナイーブに受け入れてしまっていたのではないか、先人たちの積み重ねてきたものを顧みれば、実は、かなりのことができてきたといえるのではないか、そういう思いがします。

著者は「生活言語」と「学習言語」を峻別することを主張しますが、ここにも、これまで蓄積されてきた、「学習言語」として英語を指導するための知見をなおざりにして、どだい条件の違う「生活言語」としての指導に踏み切ってしまっている現状への警鐘があります。

(このあたりのことについては、掲示板「おーぷん・すぺーす」で、takuo iwakataさんから、ひじょうに興味深い情報提供がなされました。こちらにまとめて再掲しますのでご参照ください。)

 

 

以上、かなりの字数を費やしてしまいました。書評というよりも、私の読後の感想文になってしまいましたが、それだけ本書が私の思考を刺激したということはおわかりいただけるのではないかと思います。

私は現場の教員ですから、立場で言えば、あくまでも学習指導要領や文科省の公式見解の枠内で仕事をする者です。教育実習生を担当しても、必ず、公式な考え方に基づいて指導します。それは、立場上当然のことです。(ここを、「戦え!」とか言われると、ちとツラい…。)

一方で、仮にそういった「立場しばり」がなくなったとしたら?「お上がそうおっしゃってるんで、その通りにしてるんですよ」という逃げ口上が使えなくなったら、自分はどのように考え行動するのだろうか?

そこを考えるうえで、本書は欠かせないものを提供していると思いました。ありきたりな表現ですが、まさに「必読の書」です。

 

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