2002.1.9. 『哲学のある教育実践』 高久清吉(著) 教育出版 2000年 2000円
まずタイトルに惹かれました。高校の教員になって、授業のことを一生懸命考え、実践しているつもりではあるのですが、ふと我にかえって、「いったい自分は何を目指して授業をしているのか」と自問してみると、明確な答えがまったく出せなくて愕然とすることがよくあります。自分としてはその都度「これは大切だ」と思うことを授業に取り入れ、ちゃんとその理由づけもできるつもりでいるのですが、中・長期的な観点から振り返ると、自分は生徒にどんな力をつけてやれているのか、自分でわからなくなるのです。
ようするに、自分の実践には、まだ確固たる「哲学」、「原理」あるいは「基本方針」といったものが確立されていないということなのです。それで、ここ半年ほど自分の課題として、自分なりの哲学を持てるようになろう、と考えていました。また、学校現場に身を置く中で、教育問題について議論や対応が混乱・錯綜してしまうのは、だいたいにおいて、哲学や基本方針が欠如していることに原因がある、という思いも抱くようになっていました。
そういった問題意識を持っている状態でしたので、本書のタイトルは、まさにその私の問題意識を言い表すものであったのです。しかも、「まえがき」を読んでみると、まさに私の考えていたことが、そのままずばり主張されていました。それで、たいへん興味を抱き、読んでみることにしました。
本書の構成は、「T.「総合的な学習」は大丈夫か」、「U.「生きる力」の教育は風化しないか」、「V.これからの学校像」、「「哲学のある教育実践」の探求」、「X.若い教師論」、「Y.教育目的における不易と流行」の6章だてとなっており、それぞれの章が完結性を持っています。
本書の副題は「「総合的な学習」は大丈夫か」となっており、当面の議論のとしては、「総合的な学習の時間」が、その本来の教育意図をまっとうすることができずに、浅薄・陳腐な実践に堕するのではないか、という警鐘を鳴らすという点に焦点が当てられています。しかし、本書が意図するところは総合的学習という特定の教育問題を論ずることではなく、その背景にある、教員や教育学研究者の姿勢・発想という、より一般的な問題を指摘するところにあります。
まず、著者は「総合的な学習の時間」について、次のような懸念を表明します。
「ところで、現在の「自ら学び自ら考える力」を育てる教育、特に、その実現のための代表的教育活動としての「総合的な学習」は、「横断的・総合的な学習」といった性格から見れば、確かに前例がない。しかし、その実践となると、基本的には昭和二十年代の自主性(主体性)の教育、その代表的教育活動としての「問題解決学習」などの実践とほとんど同じと見ることができる。
そうすると、…これからの実践が、約五十年前のあの実践の二の舞を演じることになりはしないか、すなわち、「矮小化」という重大な誤りを繰り返すことになるのではないかとの危惧の念を禁じえないのである。…「矮小化」に陥る最大の原因は、実践を支え、方向づけるセオリーが欠けるところにある。」(p.iv)
「目先の直接的な問題や事柄だけにとらわれるような考え方や扱い方が優先するムードが広がると、この「学習」の在り方をより広い背景や深い土台に載せて幅広く、柔軟に考えたり、また、常に反省的に見つめたりするゆとりやシャープさが失われやすい。」(p.33)
「総合的な学習」とは、いったい何で、何を目指して行うものか、という哲学が充分に理解・吸収されていなければ、結局は目先の活動を成功させることのみに意識を奪われ、「はいまわる経験学習」と批判されたのと同じ状態に至る、と著者は警告するのです。
この、「実践を支え、方向づけるセオリー」、つまり「哲学」が本書全体のテーマとなって議論が展開されていくわけですが、実践の場にいる者について、著者は次のように述べます。」
「例えば、自主性または主体性を育てるという時、実践の場では、すぐに「いかにして」「どのようにして」の問い、つまり、自主性(主体性)を育てる「方法」の吟味を問題の中心に据えるのが常となっている。このこと自体、何も間違いはないのであるが、問題は、「いかにして」の問いを自ら実践人の中心的問いとして掲げることに伴いがちな視野の狭さ、底の浅さにある。」(p.101)
「教育実践とのかかわりを強くしていく中で、私がますます深刻に考えるようになったことの一つが、実践人の間で、この「何か」と「いかにして」の間の結び付きが弱い、はっきりしていないということである。」(p.102)
「なぜそうなるのか。少し飛躍した言い方になるが、これは「哲学」がない、あるいは弱いからだと言える。分かりやすく言い直すと、実践上の諸問題について考え、これに取り組んでいく上で、哲学的な見方や考え方がはっきりしていないからである。」(p.103)
私はこれらを読んだ時、「そう、そのとおり!」と、まさに「ひざを打つ」思いをしました。実践の場では、ある事柄が良い/悪い、と、さも当然のことであるかのように言われるので、何かはっきりとした思想があってのことかと思いきや、実際は「なんとなく」「そんなものでしょう」という程度の認識でしか理由付けがなされていないことがしばしばあります。また、仮に明確な理由があったとしても、それが教育集団で共有されていないこともあります。そういった問題点をずばり言い当てた指摘であると思います。
そして、そのように哲学が弱い実践者に見られる問題点を次のように指摘します。
「哲学をもたないで教育の実際の仕事に従事している教師たちに共通して認められる欠点は、本質と現象、全体と部分、本と末、重と軽の間の区別がはっきりせず、これらを簡単に混同してしまうことである。したがって、教育の取り扱いの方法上のほんのちょっとした改善と、教育の根幹にかかわるような重大な改革との区別がつかないで、前者がうまくいったりすると、これを後者と混同していい気になったりする。」(p.112)
苦笑いするしかないほど、私の状態を見事に言い当てられた、と思います。授業でいろいろ工夫するのは良いのだけれど、その工夫が、単なるテクニック上の改善なのか、自分の授業の根幹に関わることなのか、それを見極めていないことを、私も何度か指摘されたことがあります。その時は、まさに哲学の欠如を痛感させられました。
さて、本書の最も大きな主張としては上に引用を中心にご紹介したとおりのことなのですが、これら以外にも、本書はさまざまなテーマを扱っています。それは上で紹介した章立てをご覧いただければわかると思うのですが、随所で著者の長年の教育学研究からもたらされている、落ち着いた議論がなされています。たくさん引用しましたが、それだけでは代表しきれないほどの内容があると思います。
と、ここまでは肯定的なことばかりを述べてきましたが、やや引っ掛かりを覚える部分もいくつかありましたので、簡単に指摘しておきたいと思います。
まず、著者は、「本質は現象を引き起こすが、直接的に現象を引き起こすことが、本質を育てることにはつながらない」として、「実践例・実践モデル」に安易に従うことの危険性を指摘しています。その主張じたいは、たいへん正論であると思うのですが、では「本質を育てる指導」とはいかなるものか、という疑問には著者は答えていません。
理念としてはたいへんよくわかるのですが、正論だけで終わっているがゆえに、読者によっては「なんだ、やっぱり大学のセンセイは、理想論ばっかで…」と、あまり素直な受け取り方をしてもらえないかもしれないと思いました。how-toに偏りすぎてはいけない、とは言うものの、やはりこの点には論及してほしかったと思います。
次に、「私は早くから…ということを主張していた」というような表現が多いことにも表れているのですが、やや我田引水が多いという印象を受けました。特に、「公的な見解ではこのように言われているが、私はさらに突っ込んで、このように考えている」といった形で独自の論が展開されることが多くあります。それら独自の見解は、たしかに興味深いものではあるのですが、時として自論に傾きすぎるので、公的な見解をベースにした話を欲する者としては、ややうるさくなって読み飛ばしたくなる気にもなりました。特に「生きる力」論などは紙数を割きすぎたのではないかと思います。
また、本書の議論は、「教育実践」を語るにしては抽象度の高いものであるように感じました。抽象的な文言をわかりやすく言い換える部分はあるのですが、言い換えてもあまり抽象度がさがっておらず、結局は理念的な議論にとどまっていることがほとんどであるように思います。抽象的な議論に耐性があって、少々理念的な主張でもがまんして付きあう気になる人(私はそのタイプです)が読めばいいのですが、そうでない、もっと具体的でわかりやすい話を望む教員にとっては、全然魅力のない本に映るのではないか、ということを私は懸念します。
私自身は、本書の内容はたいへんに興味深く、傾聴に値する主張をしていると思うので、単に抽象度が高いというだけで読者を限定してしまうのは、ひじょうにもったいない、という気がします(著者自身は「現場」の経験がある方らしいので、なおもったいないと思います)。
この本が多くの教員に読まれればよいなあ、と思っています。