2000.10.26.  『教育を問う 学校を問う』 下村哲夫(著) 学陽書房 1999年 2200円

本書においては、文部省主導で急激に推し進められている教育改革と、それに対する学校現場の戸惑いを出発点に、今後の教育のあり方について論点の整理が試みられています。「意欲ある教師のために」というサブタイトルは、まさに、急激な教育改革を目の当たりにして、いかに考え、行動すべきかを思い悩む教員に対して、考え方の1つのガイドを提供しようという本書の試みを表しているように思います。

内容および構成ですが、本書は全編が(「エピローグ」も!)各種雑誌・新聞において既に発表された文章を大きなテーマに沿って再録したものとなっています。そのため、1つ1つの問題について紙数を費やした議論がなされているわけではありませんし、全体的に断片的であるという感は否めません。

しかし、そのぶん、寄り道をすることなく主張がすっきりと述べられる文章となっていますので、議論の要点を見失うことがありません。また、雑誌・新聞向けの文章ということで各セクションがそれぞれ自己完結的なものとなっていますので、読みやすさという点でもずいぶん良いように感じました。

扱われているトピックとしては、「学級崩壊」や「心の教育」、「学校のスリム化」といった教育改革のキーワードに始まり、「教師の意識改革」「校長・教頭のリーダーシップ」にまで話が及んでいます。しかし、本書の魅力は、このように多岐にわたる内容よりも、むしろそれらを論ずる際の切り口です。議論の中心部・周辺部を問わず随所に「法律」「行政」「制度」「経営」といった、社会科学的な視点が顔をのぞかせ、その議論を、簡潔ながらも通り一遍以上のものにしているのですが、これも「そちら方面」に強い著者ならではの持ち味といったところでしょうか。

1つ例を取り上げてみますと、たとえば、「荒れる」生徒たちに対応する際に、その前提として学校はどのような場として認識されているべきであるかに関して述べている箇所において次のような記述が見られます。

   「部分社会論によれば、学校は、国公私立を問わず、児童・生徒の教育を目的とした教育施設であり、その設置目的を達成するために必要な事項であれば、法律に格別の規定がない場合でも、校則等によりこれを規定し、実施することのできる自律的、包括的な機能を有することになる。一般市民にはまったく個人的な自由に任されている髪型や服装についても、校則である程度規制できるのはそのためだ。ただし、この部分社会の壁をあまり厚くすると、従前の特別権力関係論と同じようなものになってしまうから、部分社会論では特に全体社会の良識という歯止めに十分配慮しなければならない。」(p.37)

なんとなく情緒的な印象論に陥りがちな教育論議においても、このような原理的観点を導入することで、案外整理されてくる問題というのも多いように思います。むろん、そうした議論の妥当性そのものは別途考えねばならないところですが、1つの切り口としては重要なものではないかと思います。

また、本書全体を通じて「教職の専門性」という観点が強調されていた点も印象に残りました。たとえば教員の資質について論じている箇所において、次のような主張が展開されています。

   「「教師は世間知らず」という定評がある。そこで文部省や教育委員会では教師に長期の社会人研修の機会を与え、デパートや企業に派遣するという。しかし、教師が「世間知らず」ではなぜいけないのか。…教師は人間の精神的な生き死にを預かっている。これほど過酷な職業はない。デパートや企業の実習を終えた教師が、「実業界の厳しさに比べて学校は生ぬるい」などという感想を洩らされるのは、教師の仕事の過酷さに対する本質的な認識を欠くものである。生涯を通じて「教育の専門家」を目指して歩み続けることこそが教師の本意であり、それがホンモノの教師になる道だ。」(p.162)

よくよく読めば、「世間を知った」教員になるよりも、はるかに厳しいことが要求されているわけです。しかし、そうした要求は昔から教員観の一部をなしてきたものでありますし、教員という職業の原点とも考えられるかと思います。著者は、ヘタに耳障りのよい「新しい」教員像ではなく、むしろ「教員は教育の専門家である」という、当たり前といえば当たり前の、しかしひじょうに重要な点を議論の出発点としているように思います。

本書は他にも、教育改革の制度的側面や、学校運営におけるリーダーシップ、あるいは学校経営や職員会議のあり方、文部省と都道府県委員会、都道府県委員会と市町村委員会の関係など、実に多様なトピックを扱っています。

ところで、個々議論の内容からはやや離れたところで私の印象に残ったことがありますので、少し述べたいと思います。それは、著者が、良い意味で理屈っぽく教育を論ずるはずの本書においても、理屈で切りとってしまうことのできない著者の素朴な「思い」とでも言うべき部分を隠していないことです。

たとえば、「荒れる」学校への対処策の1つとして、教員の「正当防衛」や「緊急避難」、あるいは警察のより大きな関与などを求める論について、「当面の緊急措置としてはやむを得ないという実態が存在するだろう」(p.39)と一定の理解を示したうえで、次のように述べています。

   「正当防衛にしても、緊急避難にしても、全体社会における対等の市民間の実力行使に関する規制である。それがそのまま子どもの教育を目的とする部分社会である学校に持ち込まれることについては、釈然としない思いがないではない。学校が学校であり、師弟関係が存在するためには、その「釈然としない思い」を大切にする必要がある。」(p.39)

「師弟関係」などとは、いささか古くさく感じないでもないですが、大切なのは一級の研究者である著者(なんて評価を下せるほど私は偉くないんだけど…)にして、そういった素朴な思いを論理の前で引っ込めることをしていない、ということです。

私自身がけっこう理屈好きなところがあって、感覚的に反発はあっても筋の通った論理には無理にでも納得しないといけないと思い込んでいたりするのですが、このような著者の姿勢は潔いと感じました。もちろんそれは論理的整合性を求める議論を低く見るということではけっしてありませんが。

さて、冒頭でも述べましたように、本書の議論はやや断片的なものとなっているわけですが、1冊の本としては情報の密度がひじょうに高く、興味深く読めました。

以下、本書中で印象に残った部分をいくつか引用し、本評の締めとします。

   「大体、「キレる」なんてまだ年端もいかない子どもがいうと、マスコミや周りの大人たちまでそれを認めるから、子どもは「キレる」を免罪符にしている。大人たちは、何千回も「キレ」て、それをどうやって調整しながら生きようかと葛藤しながらやっているわけですからね。」(著者と内館牧子氏の対談において内館氏が)(p.10)

   「「心の教育」という表現には、人間には「心」という実体があり、それを道徳律に基づいて正しく指導できるというイメージがある。しかし、「心」はさほど単純なものではなく、私たちを取り巻く社会的条件によってほとんどいかようにも変容するものだ。…問題は個人の心の持ちようのレベルではなく、学校教育の仕組みそのものにある。」(p.47)

   「見方を変えれば「学校のスリム化」は、肥大化した学校の機能をスリムにすること自体に目的があるのではなく、スリムにした学校で何を引き受けるかということが問題なのである。その意味では、学校は家庭や地域社会に対してどういう責任を負うかというアカウンタビリティの問題でもある。」(p.74)

   「一般論として、学校が忙しい職場であることは否定できない。しかし、一部の教師は、忙しいことが有能の証明であるかのような錯覚に陥り、自分で仕事を作り出し、その多忙感の中で自己満足しているというきらいはないか。」(p.76)

   「「教育における形式的平等」は、むしろわが国の教育の基本的基盤ともいうべきもので、わが国の教育水準の向上に重要な役割を果たしてきた、「個性の尊重」はむろん大切であるが、それは形式的平等が確保された上での話である。「教育における形式的平等の重視から個性の尊重への転換」といった「から〜への転換」ではなく、「教育の平等を基盤とした個性の重視」のほうが穏当ではないか。」(p.97)

   「全入制を前提として、国公私立を含めて、未来の高校像は、(a)アカデミック志向、(b)テクニカル志向、(c)カルチャーセンター志向に大きく三分されることになろう。…現在の大学の多くはすでにカルチャーセンター化しており、大学への進学は必ずしもアカデミック志向を意味しない。今後の高校の在り方として、もっとも期待されるのはむしろカルチャーセンター志向の高校である。」(pp.153-154)



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