2009.2.5. 『米国の日本語教育に学ぶ 新英語教育』 米原幸大(著) 大学教育出版(刊) 2008年 1600円 

英語教育という領域は細分化すると、たとえばESLとEFLを分け、あるいはEGPとESPを分け、あるいは小学校と中学校と高校と大学を分け、というように、「いろいろな種類の英語教育」に分けていくことができます。英語教育の研究や実践が専門的に追究されるにつれ、その細分化された領域内でそれぞれ成果が蓄積されており、現場の教員はそれらの成果からいろいろなことが学べるようになっています。

しかし、そうやって細分化・専門分化が進むと、個々の小さな領域には詳しくなっても、具体的な教室での1つの授業を組み立てるために、それらの個々の知見をどのように大きく統合していけばよいのかがわかりづらくなったり、あるいは個々の知見が具体的な教育実践のどの部分に位置づくのかという大きな視点を忘れがちになったりします。

では、英語教育を細分化するのとは逆方向に考えてみるとどうでしょうか。つまり、何を細分化したものが英語教育なのだろうか、英語教育の上位範疇は何だろうか、ということです。

そう考えてみますと、英語教育は「言語教育」の一部分と捉えることができます。

言語教育といってもいろいろですが、国語教育と日本語教育という領域は、日本語になじんだ英語教育関係者にとっては身近な領域ですし、そこでの知見は英語教育の専門家にとっても学ぶところの多いものでしょう。

私も国語教育や日本語教育のことは常々気になっていて、国語教育については、ある程度まとまって勉強した時期もあったのですが、日本語教育については手つかずの状態でした。

そういうわけで、米国において外国語としての日本語教育に携わる著者が、その知見を持って日本の英語教育への提言を行う本書は、まさに私にはうってつけだと思われました。

実際に読んでみると、授業の進め方について参考になるところもあり、また、ふだん使用しない環境で外国語を教授・学習することについての著者の認識にも共感を覚えました。

ただ、総括的な評価としては、本書の実質的内容は、残念ながら英語教育の専門家が学ぶには足らないと言わざるを得ません。私の期待が大きすぎたゆえもあるでしょうが、論考の粗さが目立ちました。

以下に、特に気になった点を指摘していくことにします。

ただし、まったく当然のことながら、次の前提はご確認ください。

(1) 著者の米原氏に対して個人的な批判をするつもりはまったくありません。あくまで英語教育に関する著作として、本書の内容・書き方について論じます。

(2) 全般的には批判的なことを述べさせていただきますが、本書の全てを否定するつもりはありません。部分を見れば、きわめて妥当な主張もなされていると思います。

最近、この「書評」コーナーにおいては、私が肯定的に評価している著作だけを取り上げ、批判ばかりを連ねなければならないようなものは取り上げないほうがよいかな、と考えておりました。というのは、ネットでの文字によるコミュニケーションという制約から生ずる無用の衝突を極力避けるためでもありますが、もうひとつ、私自身が否定的に評価しているものをわざわざ公の場で紹介する必要はないだろうと考えるからです。私が何を言わずとも、価値のないものであればそのうち消えていくであろうし、逆に、本当に価値があるものなのであれば、早晩私は自分自身の認識を正すことになるだろうからです。

それにも関わらず今回、本書を取り上げ批判的な書評を試みようとするのは、次のような理由によります。

(1) 著者の主な研究領域が「日本語母語話者のための英語教授法」である
(2) 著者は、大修館書店の『英語教育』のような、比較的多くの現場の英語教師が目にするメディアで指導的発言を求められている(特集記事の執筆依頼を受けている)

つまり、巷に出回っている、「こうすれば英語が上達する!」「学校では教えてくれない英語!」というノリとは一線を画した、英語教育に関する専門的に妥当な議論が期待される著作だから取り上げるということです。たとえ著者ご自身や、本書を支持される方からの反論をお受けすることになろうとも、まっとうな議論をさせていただくことができるのではないかと思いますので、あえて批判を述べさせていただいてもよいだろうと判断いたしました。

しかし、本書を取り上げる理由が、もう1点、その内容にあります。

(3) 日本の英語教育システムの外部を参照して日本の英語教育システム内部の「べき」論を語ることの限界が本書によく表れている

この点を私は重視しました。英語教育学界(専門家の世界)において「他国からの輸入物の理論」が批判の的とされることが最近では多いように思われますが、一方で、市井(素人)の「英語教育かくあるべし」という議論を見ると、「こんな教え方をしているのは日本だけ。たとえばフィンランドでは…」というように、「ここが変だよ日本人」の原理に基づく主張は根強く残っています。

本書は、おそらく専門家に共有されることを企図して書かれたものでありましょうが、その議論は後者の部類に属するものと私は判断しております。もちろん、その議論が十分に説得力を持つものであればよいのですが、私にはそうは思われませんでした。それは、日本の英語教育システム内部の問題を論じる際に、システム外部の知見をそのまま援用してしまうことに起因するものです。

そのような点で、いくぶんの専門的色彩が加わろうとも、そういった外部参照による「べき」論には限界があるということを、本書の検討を通じて、いくらかは論じることができるのではないかと考え、本書をここで取り上げることにしました。

さて、前提をご確認いただきたいので長々と前口上を申しましたが、本題に入ります。

本書の記述において、問題視すべき点を、大きく3点挙げます。

1.比較対象のレベルの不統一

p.9 に次のように述べられています。

前青森県立保健大教授の赤坂和雄氏は、毎日新聞の電子メール講義の「英語教育」の中で、その大学での日本語プログラムへの感想を、「ニューヨーク州の人口3万、田舎町の大学での日本語教育法を知った時の驚きは、ショックで今でも忘れられない」と書いておられます。「学生は大抵のことなら何の問題もなく、日本語で話せるようになっていた」とのことですが、私も赤坂氏と同様の感想を持っています。

一方、日本の英語教育では、大学までの8年間を主要な教科として勉強しても、メジャーな大学の学生でさえ英語でのクラスディスカッションは不可能で、片言的英語(ACTFLのスケールでは“初級レベル”…(中略)…の範囲から逃げられていないのが厳しい現実です。

アメリカの「田舎町の大学」の学生が高い日本語運用能力を有しているという指摘は何を意味するのでしょうか。著者が対応させている日本の現実が意味することは、「メジャーな大学の学生ですら英語がしゃべれない」=「大多数の日本人は英語がしゃべれない」、ということでしょう。これと比較すれば、「アメリカでは田舎町の大学の学生でも日本語がしゃべれる」=「アメリカでは多くの人が日本語がしゃべれる」というのが、この指摘の意味でしょうか。

では、JETプログラムで来日するアメリカの青年たち、すなわち、大学教育を修めていて、少なからず日本に関心を持っているはずの人々の多くが、まるで日本語を解しないか、せいぜい「片言的日本語」しかしゃべれないのは、いったいどういうことでしょうか。

現実を見てみればすぐにわかることなのですが、アメリカで高い日本語運用能力を獲得している人というのは、決して一般的ではないのです。

すなわち、アメリカにおける日本語教育は、たとえそれが成功しているとはいっても、一部の、多くの場合、日本語を選択した者に対する教育に過ぎません。この点、日本の英語教育は、全員を対象とする点が大きく異なります。生徒・学生自らの意志とは関係なく、カリキュラム上英語が押し付けられた状態で行なわれる英語教育に対し、選択者だけを対象にした教え方を基に批判する、あるいはその改善策を提案する、というのは、明らかにミスマッチです。

素人的な議論に見られる過ちとして、論者が自身が経験したこと、特に印象深く残ったこと、つまり現象の一部だけを根拠に、英語教育システムの全体を論じてしまうことがありますが、著者はここで、全くその典型的な過ちを犯してしまっているように思われます。(アメリカにおける外国語教育のシステムについては、国立教育政策研究所による報告書(PDFファイル)で、その概要がわかります。)

ただ、不可解なことに、p.33の注記においては、こう述べられています。

私が長い期間住んでいたアメリカのミズーリ州では高校は4年間あり、高校で日本語プログラムを持っていた所は僅かながらありました。…(中略)…残念ながら、アメリカの高校も日本の“英語の紹介”的プログラムのように、“日本語の紹介”的プログラムになってしまっているケースが多かったからです。
つまり、著者は、自身が経験した大学での日本語教育がアメリカの全体像ではないことを理解しているわけです。だとすれば、なおさら、様々な条件の異なるアメリカにおける一部の成功例だけを参照して日本の英語教育全般の問題点を論ずる著者の論じ方は、間違いではないにせよ、もっと慎重な姿勢でなされるべきであったと思います。

なお、著者が日本の英語教育システム全体を議論の対象としているのか、大学での英語教育に限定して議論しているのかが、実は明確には述べられていません。しかし、第1章で、「中学・高校英語教育の問題点」「大学における英語教育の問題点」「企業内英語研修プログラムの問題点」をそれぞれ別項で論じていますので、いちおう日本の英語教育システムの全体を見通しての議論であると私は判断しています。(とはいえ、p.86では「このプログラムが中学校では使えない理由です」とあり、中学校は考慮に入れていないこともにおわせます。このような対象の不明確さも、正確な議論を妨げているように思われます。)

また、ウェブで検索してみると、執筆者名が明らかにされていないので不確実ではありますが、おそらく著者が書いたと思われる文章が見つかりました。そこでは、日本語母語話者にとって「最難外国語」である英語を日本の学校において全員履修にすることへの疑義が呈され、外国語を選択制とすべしという主旨の主張がなされていました。その主張どおり、日本でも英語を選択した生徒にのみ授業を行うと想定したうえでの議論であれば、本書で述べられていることも、筋が通る話ではあります。


2.日本における英語教育実践への理解不足

著者はたしかに、アメリカの大学での日本語教育に携わり、好ましい成果を挙げた実績を持っているのでしょう。しかし、その経験・知見が、日本の英語教育現場にも適用できるものであるかどうかの省察が不足しているように思われます。

たとえばp.21で、次のように述べられています。
例えば日本のオーラルコミュニケーションのプログラムにはオーラルテストがありません。アメリカの日本語教育での先生・生徒には不思議に思われると思いますが、英語のオーラルの勉強を生徒にさせていてそのためのテストがないのです。その理由は、オーラルテストとかインタビューテストとかといったものは、生徒のオーラルレベルが低過ぎてテストとして機能しないからだと私は思います。オーラルテストを施すには学生数が多過ぎると言う人もいるかも知れませんが、そういった場合はオーラルテストを個々人ではなくグループで行なえば問題はないと思います。

まず第1文ですが、厳密に論理的な言葉遣いをしているのでないことは承知のうえですが、それでもこのように言い切ってよいものか、おおいに疑問です。まず私自身は中学・高校の授業でインタビューテストなどは日常的にやってきましたし、私が知っている範囲では、自分の勤務先でも他校でも、そういったテストが行なわれることは珍しくないように思います。今の勤務先はある意味で「そりゃ当然でしょ」と言われそうな学校ですけれども、前任校のごく普通の公立高校でも、英語の学力はむしろ低い部類に入るコースにおいてですら、先輩の教員は皆、どうにか実施可能な形でオーラルテストを実施されており、「テストとして機能」していました。そういった実態をどれほど踏まえての「オーラルテストがありません」という断言なのか、と問いたいところです。

また、「グループで行なえば問題はない」というのは、いったいどう問題がないのか理解に苦しみます。個々人のパフォーマンスを測定するならば、個々人を対象にした形式でなければ正確な測定は難しいでしょう。グループで実施したら、そのグループに含まれる他の生徒のパフォーマンスに影響を受けてしまう(答え方のフォーマットを真似するなど)からです。また、グループとしてのパフォーマンスを測定する場合でも、結局そのグループに誰が含まれているか(英語の得意な生徒が多いなど)によってパフォーマンスは異なって出てきます。そこをどう回避することができるのか、具体的な提案はありません。

他にも、予習についてp.64で次のように述べられています。

生徒に課すクラスの準備(予習)の量は、生徒が「一寸きついな」と思うくらいを目安とします。最難外国語の習得作業には、どうしても“量”と“勢い”が求められます。このタイプの外国語は難しいがゆえに生徒が覚えたことは忘れやすいのですが、覚えては忘れ、覚えては忘れの繰り返しパターンの英語プログラムでは非常にまずいわけです。

英語の学習(習得)論としては、きわめて真っ当なことを言っていると思います。しかし、では、どうすれば「一寸きついな」と思うほどの予習を生徒にやらせることができるのか、その具体的な手立ては示されていません。基本的に全員履修の中高の英語授業において、生徒がそれほど協力的でありさえすれば、そもそも本書冒頭で著者が指摘したほどの問題は生じてこないでしょう。問題の所在を取り違えていると言わざるを得ません。

そのような取り違えが生じる理由は、「学習・習得」と「教授・指導」の混同です。

最近では第二言語習得研究もずいぶんと進んできて、中には外国語学習に応用が利きそうな知見も提供されています。また、古くからの「語学の達人」と言われるような人々の学習法を知れば、学習者個々人がどのような取り組みをすれば英語を習得することができるのか、かなり有力な示唆を得ることができます。

しかし、それらはあくまで「学習・習得」に対する示唆である限りにおいて有力なのです。

つまり、

 ・そもそも対象言語(ここでは英語)を習得しようという意欲がある
 ・その習得のためにはそれなりの犠牲を払うことを厭わない

という人にとっては役に立つのだけれども、

 ・英語を習得したいと思っているわけでもない
 ・だからできるだけ犠牲は払いたくない

という人(しかも中高であればまだ未成熟な子ども)にとっては、たいしてありがたくないのです。

ましてや、後者の集団を相手に、強制的に英語を教える立場に立つ、英語習得の主体ですらない英語教師にとっては、前提が相当ずれているわけですから、上の引用のような提言は、まるで意味をなしません。

そういう理由で、英語教育における「学習・習得」論と「教授・指導」論は、全く別種の考慮を必要とするものだと私は思っていますが、素人的な議論ではこの二者がきわめて安易に混同されてしまう傾向が強いように思います。「学習・習得」の論理が「教授・指導」の場面ではストレートには通用しないということを身をもって経験しなければ、この二者の異質性に気がつくことは難しいのかもしれません。

そう考えると、本書のこの主張は、専門家によるものとしては、少なくとも日本における英語教育を論じるには、きわめて稚拙と言わざるを得ません。

ちなみに、著者としても、いちおう「想定反論」は念頭にあったようで、第4章のQ&A(p.158-159)で次のような部分があります。

Q:生徒のクラスへの準備は理想的ではありますが、これが簡単に実現するなら苦労しない、と思うのですが。
A:生徒は、やはり50分のドリルの授業に対して40分から1時間以上(外国語習得に対しての向き・不向きで個人差が随分ありますが)は準備すべきだと思います。私は、アメリカのいろいろなレベルの大学で教えましたが、その程度のクラスの準備は生徒間でほとんど問題にはなりませんでした。その程度の準備を行なわせるのが日本の高校や大学では問題になってしまう理由が私には正直分かりません。…(中略)…それに、英語のバランスの良い4スキルの習得目標に対して、実際にそれが着実に達成されつつあるという手応えのあるプログラムであればある程、生徒の暗記を含めた予習や復習への“やる気”は増してくるようになっています。

「理想と現実のギャップ」への疑問に対して、「べき」論つまり理想論で答えるという、なんともちぐはぐなQ&Aになってしまっています。「理由が分かりません」と著者は言いますが、じっさい「正直」な告白だと思います。すなわち、著者が、日本の中学・高校や大学が置かれている状況を理解しないままに「改善策」を提示しているということが、ここに露呈してしまっているわけです。

それに、本書の提唱するプログラムを成功させるための必要条件として予習が位置づけられているわけですから、「予習する→手応えがある」という順番が想定されているはずです。しかし、著者の答えは「手応えがある→予習する」のように逆転してしまっています。ここには、最初の「手応えがある」を成立させるための「予習する」を可能にする手立てが示されていません。

実際は、何らかの強制力を伴って生徒に予習を押し付けていくことになるのでしょうが、その部分こそが、多くの英語教師が奮闘している部分であり、また見倣うべき実践例が日本の英語教育界の内部に蓄積されつつある部分でもあります。本書が提唱するプログラムは、日本の英語教育の外部からのものだが、それは、けっきょく日本の英語教育の内部に依存しなければ成功しない、と、そこまで言ってしまうと言い過ぎでしょうが、内部への認識が甘いということは指摘せざるを得ません。


3.英語教育に関する専門的認識の不足

p.91に次のように述べられています。

リーディングに関してのコンプリヘンションのチェックは、英語で生徒に質問し、生徒はその問いに対して英語で答える形で行ないます。習得対象言語は習得対象言語のまま理解し、リーディングの読解力クイズ的な質問をオーラルで行い、それにオーラルで答えてもらえば生徒がどの位リーディングの内容を理解しているのかが分かるからです。

一瞥して専門的認識の不足が見て取れます。

まず、「習得対象言語は習得対象言語のまま理解」するというのが、実際にはどのようなプロセスを指して言っているのかが不明です。表面上は英問英答が成立しているようでも、そのコミュニケーションの当事者の内部においては、心的な翻訳がなされている可能性は十分にあります。

表面上英問英答が成立していればそれで良しとする、というのであれば問題はありません。しかし、英問英答をしてさえいれば心的なプロセスでもmonolingualな思考がなされているはずだ、という想定に立ち、そのように想定できるから著者の提唱する指導法は効果的である、という論理であれば、その妥当性は根本から揺らぎます。著者がどこまでの認識を持ってこの文言を書いたのか、読者としては不安を覚えます。

また、英問英答をすれば生徒の理解が測れるというのは、まったくの間違いです。英問英答において生徒が行なわねばならない処理をおおまかに書き出すと、次のようになります。

(1) 教材に書かれている内容をリーディングによって理解する
(2) 教師からの質問をリスニングによって理解する
(3) 教師からの質問が、自分がリーディングによって理解した情報のどれと対応するかを判断する
(4) 自分が正しいと思う答えをスピーキングによって表出する

このうち、著者が「どの位リーディングの内容を理解しているのか」と言うのは、(1)の処理でしょう。生徒が正しく答えた場合は、(1)〜(4)の処理が正しく行なわれたと判断できるわけですから、(1)の処理が正しくなされていると推論することは妥当です(厳密には、(1)の処理を誤ったうえに(2)(3)(4)の処理も誤った結果、偶然「正答」が表出される場合も考えられますが、現実的には無視してよい事象かと思います)。

しかし、生徒の答えが誤っていた場合、誤答のみをもって(1)の処理が誤っていたと結論づけることはできません。教師が質問を別の英語で言い換えたり、日本語で言い換えたり、生徒が参照した教材の部分を述べさせたりする中で、ようやくどの処理に問題があったかが明らかになるのです。

この程度の認識は、英語指導に携わる者としては基本中の基本だと私は思うのですが、著者がそういった認識を持ち合わせていないのか、それとも、持ち合わせた上で、あえて上のような書き方をしているのかが伝わってきません。

また、p.143-144では、戦時中のアーミー・メソッドを、音声第一主義の観点から肯定する文言が見られますが、アーミー・メソッドにおいては、成績下位者は前線に送られるという極度のプレッシャーがかかった状態での言語学習であったという点が不問に付されています。そういった観点からすると、

そのアーミー・メソッドを遥かに洗練させ、発展・進化させたジョーデン・メソッドが今現在もアメリカの少なからずの高校や大学で使われて大きな成果を収めてきているのです
という文言も、そのままでは受け入れがたく思われます。

ジョーデン・メソッド(本書が推奨する英語指導法)を取り入れた教育課程において 落第の危険性が高いというプレッシャーが生徒に与えられているのだとすれば、その教育課程の成功は、メソッド自体の効用というよりは、生徒が不利益を回避しようとしていることによる可能性が高いと言えます。たとえば、上で論じた予習の問題も、もし生徒にそのようなプレッシャーがかかっているとすれば、生徒は放っておいても自分の利益になるように行動するでしょうから、予習を前提とした指導も、当然、成立しやすくなることでしょう。

もちろん、これはあくまで私の推測に基づく議論にすぎません。ジョーデン・メソッドの教室においては、生徒がそのようなプレッシャーを受けることはない、という現実があるのであれば、すぐに撤回します。

しかし、確認しておかねばならないのは、日本の学校は基本的に「落第させない」ことを目指すシステムだということです。落第させて、たとえば英語の成績が悪いからと退学させたり留年させたりするようにすれば、“下”を切り捨てるわけですから、たしかに英語教育プログラムとしては成果があがるでしょう。しかし、そうやって切り捨てられた生徒たちに対する処遇が十分に用意されていないとすれば、公教育のシステムとしては欠陥品です。

アメリカの外国語教育において、“下”の生徒にどのような処遇がなされているのか、詳しいことを知らないので何も言えませんが、少なくともその部分の検討なくしては、アメリカの一部で成功しているジョーデン・メソッドが、日本(の全体)でも成功するだろうという推論には賛成できません。

このように、議論があまり掘り下げられていないために、著者の主張も、けっきょく「私はこの方法でうまくいった。だから他の人もこの方法でうまくいくはずだ。」という素人的推論の域を出ないままに終わっているように思われます。ここで私が指摘したような点について、著者独自の見解があるのであれば、それを含めた議論をするべきであったと思います。

なお、議論を建設的にするために付け加えておくと、ジョーデン・メソッドというのは、日本語教育の業界では常識となっている教授法のようで、地位の確立したものであるようです。私はこの教授法については素人ですから、その内実を論ずることはできません。しかし、地位が確立しているからといって、そのまま対象言語も学習者も教育環境も違う日本の英語教育に当てはめるべきと論ずるのは、さすがに安直だろうと思います。少なくとも本書が扱う範囲においては、「アメリカの大学における日本語教育」と「日本の中・高・大・企業等における英語教育」とを比較検討し、ジョーデン・メソッドが成立する素地が備わっていることを説くべきであったと思います。その論証があって初めて、著者の主張に説得力が生まれるのではないでしょうか。


さて、以上のように本書の問題点を論じてきましたが、実際の授業やテストの進め方については参考になる部分もありますし、コミュニケーション一辺倒では効果的ではないという主張も真っ当なものだと思います。そういったプラスの側面があることは承知したうえで、私はマイナスの側面を論じてきました。

しかし、私の評価が妥当なものであるかどうかはわかりません。斬新な提案というのは、えてして既存の枠組みにとらわれた思考には否定的に映るものです。私の否定的な評価も、実は本書の提案する画期的な提案の価値を理解していないことによるものかもしれません。特に、ジョーデン・メソッドについてはきちんと勉強しなければいけないと思っています。

この書評をきっかけとして本書をお読みになる場合は、そういった可能性を含んでおいていただけるとよいかと思います。

 

(補足)

著者の米原幸大氏から、この書評に関してコメントをいただきました(ここでは再掲しません)。私がこれだけ否定的な書評をして決して心中穏やかではなかったと察しますが、それにも関わらず、きわめてフェアな態度でリアクションをお寄せくださったことに心より敬意と感謝を表します。

この書評はあくまで著述の内容についてのものであり、著者である米原氏個人への批判ではないことを、繰り返し述べておきます。

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