2000.8.29 .『「ゆとり教育」亡国論』 大森不二雄(著) PHP 2000年 1300円
本書カバーには、「現役文部官僚が直言 学力向上の教育改革を!」とあります。これだけで既に本書が何を言わんとしているかわかってしまうかもしれませんね。
著者は、現在の教育論議においては一種の「勉強否定論」とでも呼ぶべき論調が支配的であり、また、それが文部省の推進する「ゆとりある教育」と同一視されがちである、と現状を認識したうえで、そのような勉強否定論は「勉強」の価値を不当に貶めるものであり、現在めざすべき教育改革の方向とは逆行するものである、との考え方を述べています。
「「ゆとりの教育」や「個性を尊重した教育」の本来の趣旨は、子どもたち一人一人の学習の速度や得手不得手に応じて、身に付けるべき学力をしっかりと身に付けることができるようにすることにあるはずです。ところが、まったく逆に、「ゆとり」や「個性」を旗印とすれば、義務教育としての責務を十全に果たさなくとも許されるかのように受け止める憂慮すべき風潮が一部に見られるのです。」(pp.139-140)
そして、これからの時代に到来しようとしているのは「知識社会・知識経済」であるとの認識を示したうえで、めざすべきは学力水準の向上であると主張し、改革を成功させるための具体的な提案をいくつか行っています。
著者は現役の文部官僚です。もちろん本書の主張に関してはあくまでも「個人的見解」であるとの断り書きがあるわけですが、それでも著者のように実際に制度を動かす側にいる人が行う提案ですから、説得力があります。著者の「教育改革試案」が特に制度面に焦点化されているのもうなずけます。
本書の構成ですが、まず序章「「教育改革」が目指すべき進路」において、勉強否定論が文部省の「ゆとり教育」と同一視されがちであるが、本来学校とは「勉強するところ」であり、目指すべき改革も、勉強の価値自体は認めたうえで、その質を問うてゆくべきであると述べています。
また、勉強否定論において情緒的に「常識」とされている前提を再度問いなおす必要性も示唆しています。たとえば次のように述べています
「教える知識の量を減らせば創造性が身に付くなどという考えは、何の科学的根拠もない妄想に過ぎません。意味もなく細かな知識の習得に時間と労力を充てている状況があるとすれば、その時間と労力を論理的な思考力や表現力、体験的学習に支えられた問題解決能力などの育成に充てることは大切です。しかし、知識と創造性の両者を対立的にとらえるのはナンセンスです。」(pp.14-15)
そして、学力向上を目指した改革の一部として、学校・教職員の「アカウンタビリティー」の向上や、学校制度における「選択の自由」の拡大が重要である、と著者は述べます。
第1章「勉強否定論に支配された「ゆとり教育」」では、「日本の子どもは勉強しすぎ」というような論が根拠のないものであることや、「新しい学力」が「旧い学力」に取って代わって伸長してきたという実証的データもないこと、知育と心の教育は相反するものではないこと、などを指摘し、勉強否定論の影響を受けた情緒的な議論をしていてはいけない、という警告を発しています。
また、来るべき時代が「知識社会・知識経済」であるとの考え方を示し、諸外国の教育政策もその認識に沿って学力水準の向上を志向したものであることに言及しています。
しかし、だからといって単に「昔は良かった、昔に帰ろう」では改革は成功しないとの認識に立ち、「アカウンタビリティー」や「選択の自由」が重要であるという改革の基本理念を示しています。
第2章「勉強否定論から教育を救う「10のアピール」」においては、「学校は勉強するところである」「勉強は良いことである」「「知育」と「個性」は相反するものではない」「教えるべきことは教えなければならない」、などといった学校教育というものに対する著者の基本姿勢を提示しています。
特に目新しい考え方ではないものの、いずれの項目も勉強否定論の風潮にあっては忘れ去られてしまっているような事柄であり、学校教育というものを論ずる際に、再度確認せねばならない出発点であると私は思います。
そして第3章「学力向上を目指す教育改革試案」においては、著者の考える教育改革を実現するための方策が述べられています。ここでの主張は第2章までの主張とも大きくオーバーラップするもので、基本的には制度面をどのように改善すべきかについて論じています。
本書全体としては、教育サービスの供給側である学校の「アカウンタビリティー」と、受益者側である生徒・保護者に与えられる「選択の自由」が焦点化されているように思います。
「アカウンタビリティー」には「説明責任」という訳語が充てられることが多いようですが、著者は、アカウンタビリティーには単に説明する責任以上のものが含まれると言います。
「アカウンタビリティーの意味するところは、公共サービス機関が受益者に対して、自らのサービスの具体的な成果(費用対効果などの観点も含む)に関し、きちんと説明して正当化することができなければならない、という責任を何らかの制度的担保の下に負わされていることを意味するのです。情報公開とは意味が違い、ましてや言い訳することなどではなく、ごまかしの通用しない結果責任のことなのです。各学校は、結果責任を問われるべきなのです。各学校の成果が親や住民の選択や評価にさらされ、教育の質や特色をめぐって切磋琢磨する必要に迫られることが必要なのです。」(p.56)
つまり、学校は自らの教育活動とその成果(結果)について、きちんと(制度的に)責任を負わねばならないということです。ちなみにこの点は、勉強否定論と文部省の意図するゆとり教育との相違でもあります。
そして、学校にそのようなアカウンタビリティーを求めると同時に、学校教育に市場原理を導入する、つまり生徒・保護者の選択をめぐる学校間の競争を促進することで、より魅力ある教育を目指して各学校が努力できるようになる、と著者は主張しています。
さて、以上のような本書の主張、特に勉強の価値を正当に評価したうえで学校教育を考えていかねばならないという主張に対しては、私は基本的には賛成の立場です。しかしながら、中には楽観的に過ぎると思われる主張もあるように思います。そのうち2点ほどに関して批判を述べたいと思います。
1つは、学校教育への市場原理導入に関してです。著者は、競争が生まれることで魅力ある教育サービスを各学校が目指すようになると言いますが、この場合の「魅力」の内実が充分に論じられていないように思います。
理想的には「体験的学習を重視したカリキュラムを組む学校」「基本的生活習慣の指導を徹底する学校」「高度な数理的能力を伸長する学校」のように、各学校や地域の特色が生まれてくるのがよいのでしょう。しかし、いまだに有名大学への進学には価値が認められているわけで(あり、その価値は否定されるべきものでもない)、そういった状況における「魅力」とは、やはり画一的な「受験学力」に堕する危険性が高いのではないでしょうか。
「受験学力」が、来るべき時代(既にその時代は始まっているかもしれませんが)に求められているもの、たとえば情報の収集・整理・活用能力等であれば何も問題はないわけですが、大学入試問題の大半はいまだに旧態依然の知識・能力しか測定していないのではないでしょうか。
そういった意味では、市場原理導入→学校間の向上的競争→魅力ある学校教育→教育改革の成功、という図式はあまりに楽観的なのではないか、と私は懸念します。
次に、著者の主張には、今次の教育改革における基礎的概念との整合性に問題があるのではないかと感じます。著者は、「知育は「心の教育」にもプラスになる」として次のように述べています。
「「知・徳・体」は、切り離しがたく結び付いており、そのすべてを支えるのが物事に前向きに真剣に取り組もうとする向上心や勤勉の価値観であろうと考えます。我が国の学校教育が今一番必要としているものは…勤勉の価値観を時代に即した形で再建することです。「知育」と「勤勉」の価値観を積極的に肯定し、「知性」と「向上心」を大切に育もうとする教育は「徳育」にも好影響を及ぼすでしょう。」(p.90)
この主張自体の是非はさておき、気になるのは、ここにおいて「心の教育」という用語がかなり恣意的に用いられているのではないか、ということです。
1998年の第16期中教審による「心の教育」答申においては、「心の教育」において「生きる力」を育成することの重要性を説き、「生きる力」の核として「豊かな人間性」を位置付けています。同答申によれば「豊かな人間性」の内実として6つの項目を挙げています。また、学校のみならず家庭や地域社会の役割にも言及して、「心の教育」には実に多様な側面からのアプローチが重要になることを示唆しています。
ところが本書の著者は「心の教育」という用語を掲げながら問題を「勤勉」に矮小化してしまっているようにも感じられます。その意味で、著者は知育復権を謳うあまりに「心の教育」の多面的性格を意図的・非意図的に避けて議論を進めているのではないか、ひいては現在の(学校)教育における「キーワード」とでもいうべき概念が考慮に入れられていないのではないか、と私は危惧しています。
著者は、自身の主張する教育改革案と、文部省のオフィシャルな考え方との整合性をもう少し示すべきであろうと私は思います。
むろん、紙面の都合等の実際的な都合で議論を省略しているという可能性は充分にあるでしょう。が、いずれにせよ、この2点は、必ず議論を通さなければならないことだと考えます。
さて、著者は本書の主張は、「王様は裸だ!」と叫ぶようなものだと言います。なかなか言い出せない雰囲気はあるけれども、その主張自体は実にまっとうなものであるということです。
私もそう思います。市場原理の導入等に関しては議論が盛んに行われているところでしょうが、その制度改革の目的論として、学力水準向上を求めることが誤りであるようには思えません。「学力」の定義自体が困難であるという問題点もあるでしょうが、直観的には、「学力」の根幹が時代によってそれほど揺らぐものだとも思えません。その意味で、本書の主張は「やっと出てきた」良識的意見ではないかと思います。