2005.3.21. 「和訳先渡し授業」DVDを見る
「書評」コーナーで『和訳先渡し授業の試み』(三省堂)について書評をしましたが、同書を読了後、この方式の授業が実際どのように進められるのか、ぜひ見てみたいと思うようになりました。そこで、和訳先渡し方式の紹介をしているDVD『英語教育Hot Issues! 高校におけるリーディング指導』(ジャパンライム)を購入し、見てみました。(このDVDだけを見ても、いまいち何のことやらわからないかもしれません。和訳先渡し方式を知るには、先に書籍の方をご覧になることをおすすめします。) 2つの意味で当惑を覚えました。 まず1つ、改めて強く感じたのが、「和訳先渡し」というネーミングはこの方式の実態をよく表すものではない、ということです。たしかに和訳を先に与えてしまうのだから「和訳先渡し」は正しいのですが、本DVDで見る限り、実際の授業では「和訳」の部分はかなり印象が薄く感じられます。 まず授業のテンポがかなり速い。あくまで私の感覚ですが、かなりポンポンとリズム良く、次から次へと活動が移り変わっていきます。1回の授業で4回も同じ文章の全体に目を通すわけですから、テンポが良いのは当然のことかもしれません。文章全体に目を通すのに使える時間は、単純計算で1回あたり10分そこそこ。必然的に、英文と和訳をじっくり見比べる時間の余裕など存在せず、生徒の様子を見ていても、本当に「必要に応じて」和訳を「ちらっ」と参照している程度のように思えます。 和訳が英文プリントの裏に印刷されているというのもミソで、英文・和文が左右に対照されていたり和訳だけのプリントを配布する場合と違って、和訳を見るのにいちいちプリントを裏返さなければならず、それがかなり面倒な作業になってしまうのです。そのことが、必要以上に和訳に頼らない姿勢を自然に生むことにつながっているのではないでしょうか。 つまり、単に和訳を先に渡すというだけでなく、「どのように渡すか」に工夫があるからこそこの手法が生きてくるのだといえるでしょう。「書評」の方では「見よう見まねでトライしてみることが大切」などと書いてしまったのですが、中途半端な「見よう見まね」で和訳だけのプリントなどを配ってしまったら、実はこの方式のメリットを全く活かさないまま悪影響だけが残ってしまうのかもしれません。 また、Q&Aの答えあわせを、あらかじめ録音しておいたテープで行うというのも、単にリスニング活動を織り交ぜるというだけでなく、授業のタイム・マネジメントや生徒の緊張感を持続させるといった「授業運営」に関わる部分での効果が大きいように思いました。単に和訳を先に渡して「解読」作業を削ろうというのではなく、削ったあとの時間をどれだけ有効に使うかを考えるからこそ、こういったテクニックが生まれてくるのだと思います。こういった側面もまた、中途半端に真似をしたのでは失敗してしまう危険性を大いに孕んでいる部分だと思います さらに、授業が英語でどんどん進められている点が興味深く思われました。前掲書でも「我々の提案は、『和訳先渡し』というくらいだから、和訳を否定していない」と述べられているように、この方式は英語学習・指導における日本語の介在を認めています。ですから、同書を読んだ印象ではもっと日本語が使用される授業なのかと思っていたのですが実際はほとんどの指示が英語でなされています。考えてみれば、「和訳先渡し」は英語のinput・intakeを増やすためにやっていることなので、これは当然のことかもしれません。 いずれにせよ「和訳先渡し」というネーミングには表れない部分でさまざまな配慮がなされていることが見て取れます。単に和訳を先に渡せば「和訳先渡し方式」という短絡的な発想ではなく、和訳の与え方や和訳を与えた後の活動が周到に用意されているからこそ「和訳先渡し方式」に意味があるのだということを強く感じさせられるDVDの内容でした。 さてその一方で、この方式による授業を「リーディング」指導と呼んでよいのだろうか、という違和感も覚えました。ここで「リーディングとは…」などと定義論を始めるつもりはありませんし、じっさい和訳先渡し方式では英文を何度も「読む」活動で授業が構成されているわけですから、これを「リーディング」指導と呼ぶことは可能でしょう。 また、「書評」で述べたように、この方式は従来なされてきた多くの授業を支える既成概念に対するアンチテーゼですから、その既成概念に囚われている私が違和感を覚えることも、当然と言えば当然のことかもしれません。 しかし、それを承知であえて言うならば、本DVDで展開されている授業は従来の感覚からいって中学生あるいは習熟度の低い高校生を相手にしている授業という印象を強く受けました。 まず何よりも、教師主導の色が濃いということが挙げられます。上に述べたように、いろいろな活動がテンポ良く次から次へと展開されるわけですが、そのリズムを作るのはやはり教師でした。「ハイ、次はこれ、ハイ、次はこれ…」といった感じで、教師の側のペースで授業が進められている印象があります。学習経験の浅い中学生や、教師がペースメーカーにならないと授業が進まない低習熟度の生徒であれば、なるべく教師から細かく指示を出してあげた方がよいと思うのですが、仮にもSELHi指定を受けるような高校の生徒を相手にするには、やや教師が前面に出すぎていたように思えました。 次々と活動が変わっていくため、個々の生徒がじっくり英文と向き合う時間がどれほど確保されているのだろうか、という点にも疑問を覚えます。既成概念と言ってしまえばそれまでなのですが、やはり自然な言語使用という意味では、リーディングでは個々の読者が独力で英文と向き合うというのが最も自然だとは言えるでしょう。 もちろん、時間制約のある中で目的の情報を的確に抽出し整理する、といったこともリーディングの一部ですし、個々人の読み取りを他者と共有することも現実世界では行われます。ですから、そのためのいわゆるスキミング・スキャニング練習やペア・ワークによる協働的読みには意味があります。しかし、物語文や随筆のようなものはどうでしょうか。単にストーリーがわかればよい、概要が把握できればよい、といったものではなく、やはり読者個人が登場人物の主観を読み込んでみたり、筆者がどのような意図をもって何を伝えようとしているのかを読み取る、というようなことも大切です。生徒の英語力にも左右されますが、少なくとも本DVDで対象にしているレベルの生徒であれば、そこまで踏み込んでよいのではないでしょうか。 そのためにはやはり生徒個々が英文とじっくり向き合う機会が欲しいところなのですが、少なくとも紹介されている範囲内ではそのような活動は見当たりません。"主体的読み"と名づけられた活動も、やはり教師にお膳立てされた印象が強かったように思います。「主体的な読み」というと大げさになってしまうのですが、ある文章と出会ったときに最初に他人に読み方を指定されてしまうのは、やはり不自然な印象がぬぐえません。いずれかの段階(予習・授業の最初・授業の真ん中・授業の終わり・復習など)において、生徒が一読者として英文と向き合う機会がある授業のほうが、私は好きです。 と、このように言うと、「それは余剰時間の使い方の問題で、主体型の活動を取り入れることは可能だ」という反論もあるでしょう。前掲書著者たちが主張するのは、決して和訳先渡し方式は一枚岩的な手順ではなく、和訳を渡すことによって生まれた余剰時間を指導者の裁量でいかようにも用いてよい、ということです。ですから、余剰時間で「主体的読み」の活動を取り入れることはできるのだと思います。 ただ、そうすると同じ文章を繰り返し読む反復回数は減りますし、inputをintakeに変換することができるのか、という疑問が残ります。結局この方式が脱却しようとした訳読方式と同じ過ちを犯すことになりかねませんし、下手をすると訳読方式よりも効率は悪いかもしれません。このあたりは、正直言ってどのように考えたらよいのか結論が出せずにいます。 何度も繰り返しますが、和訳先渡し方式の優れている点は、多くの人が陥りがちな色々な思い込みに挑戦したことだと思います。ですから、私の勝手なリーディング観を盾にこの方式を批判するつもりは毛頭ありません。前掲書著者たちが正しく主張するように、あくまで授業のバリエーションの一つとして活用していけばよいのだと思いますし、前掲書や本DVDで紹介されている手順を唯一の「和訳先渡し方式」とみなすことも不正確だろうと思います。 しかし、高校生というそれなりに知的成熟を迎えている学習者を相手にするには、もう少し生徒が主体になる要素があってもよいのではないかなあ、というのも率直なところです。この方式がセンセーショナルな印象を伴いがちであるのは、おそらく半ば意図されたことでもあるでしょうから、なるべく疑問・誤解を与えないような「売り込み」をしてほしいと思います。 なお、「書評」の方を書いたときには、私は「訳読(和訳後渡し)」VS「和訳先渡し」という図式しか頭になかったのですが、その後「和訳」VS「非訳(日本語に頼らない読み)」という対立軸もあるということをある方の指摘によって気づかされました。訳に頼らないリーディングというのはずっと言われ続けていることですが、少なくとも高校の英語授業に関する限り(私設の英語教室や学習塾などは除く)なかなか有効な方法論が提案されていないように思います。私もまったく考えがまとまっていないのですが、「非訳」を学校場面でどのように具現化することができるのか、方法論をしっかりと検討したほうがよいと思うようになりました。 訳読にせよ和訳先渡しにせよ、なぜ英語授業には和訳が登場するのでしょうか。おそらく40人(とは限りませんが)という人数を対象にしているというのが最も大きな理由なのだと思います。理想を言えば、入門期からその時点その時点での英語力に応じたインプット・アウトプットを大量にこなしながら徐々に習熟していくという指導が良い形ではないでしょうか。しかし習熟度に差がある集団に対して同一の教材で一斉指導を行おうとすれば、なんらかの手段で集団内の理解度を統制した方が授業が進めやすいことも確かでしょう。そこに和訳が活躍する余地が生まれるのだと思います。 しかしそれと同時に、和訳以外の方法で集団の理解度を統制する手法も検討されてよいでしょうし、さらに言えば、集団の理解度は統制されるべきものなのかということも検討の対象になるかもしれません。 |