夕凪亭閑話 2012年1月      CRYSTAL  Home へ。

2012年1月1日。日曜日。元旦。曇り後晴れ。夜、小雨。

謹賀新年。

2012年。平成24年です。

あけまして、おめでとうございます。

子供たちは成長し、こちらは、老いの坂をどんどんと下って行っています。
その一里塚です。

今年の目標は、といっても特に無し、です。
去年からの継続目標は、ドストエフスキーの作品を読むことです。スローに進んでいます。新潮文庫で「死の家の記録」。半分くらいです。次は、「虐げられた人びと」と続く予定です。

以上、年頭の所感、です。


今日は帰省している次女と長男を連れて、因島へ。午後帰って昼寝。

頭がぼーっとしていますが、読書を!!

まず、鴎外の「青年」は参。小泉が新しい下宿を探しにいきます。


「大菩薩峠」は十四、十五、十六です。さて、試合の顛末はといえば、以下の描写のとおりです。
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 宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さを嫌(きら)い、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。

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「夜明け前 第一部上」第二章の一。
「山里へは旧暦二月末の雨の来るころで、年も安政(あんせい)元年と改まった。」という時代。万福寺の松雲和尚の帰郷のシーンである。


堀辰雄「美しい村」の「暗い夏」を読む。
「美しい村」というエッセーのような小説は、「序曲」「美しい村」「夏」「暗い道」の四編から成る連作短編である。「風立ちぬ」の序章のようなもので、よい雰囲気を醸し出している。

 

 

 

 

2012年1月2日。火曜日。晴れ。

今日もよいお天気。
穏やかな日々が続く。

朝、長男が東京へ戻る。9時20分のバスで広島空港へ。
桔梗さんと次女は買い物へ。

一人夕凪亭で朝の日を浴びる。

もう年賀状が来た。まだ返事は一行も書いていない。

例の青空文庫版の読書もすすめなければ・・

「伊沢蘭軒」では その六十二とその六十三。山陽出奔のことなど。
     
「道草」は、五十一と五十二。健三は島田へ金を少しやった。

徳富蘆花の「不如帰」は一の二と一の三。あまり物語はすすまない、伏線のようなもの。

「みみずのたはごと」の三、四。同居の人、犬猫の紹介。

「レ・ミゼラブル」の第五編下降  のうち、 三 ラフィット銀行への預金額   と  四 喪服のマドレーヌ氏   を読んだ。

「或る女」は四。話が、過去の事を説明しながら、進むので、なかなかまぎらわしい。現代の話は、列車に乗って、横浜までアメリカ行きの船の切符を買いにきたということである。

 

 

2012年1月3日。火曜日。晴れ、一時小雨。

朝から朝日が夕凪亭に入って、なかなかよい感じ。郵便局が民営化して、2日にも年賀状が配達されるようになった。今日はだいたい返事が来る日だから、出していない当方へ返事が来るわけはないから、来ないだろうと思っていたら、また来たので、驚くというよりも恐怖の中に落ち込んだ。明日から仕事だから、今日のうちに返事を書いておかなければ、と決心して、重い腰を上げた。
・・・・しかし、しかし、・・うまくいかないのだ。失敗ばかり。55円の龍の絵の入った年賀葉書が、どんどん没になっていく。涙、涙、涙。

結局、数々のプリンターを試みて、かろうじて本文だけを印刷。宛名は手書きにすることに決定。

悪夢のような一日でございました。

 

2012年1月4日。水曜日。晴れ。

さあ、今日から仕事。といってもすでに水曜日。木、金と3日間だけだけれど。

矢内原忠雄 「帝大聖書研究会終講の辞」読む。

 

 

 

2012年1月5日。木曜日。晴れ。

昨夜は8時過ぎに帰る。車外気温2℃だから、寒い。この冬2度目の寒波到来だろう。
すぐに風呂に入る。湯を入れても温度上昇が鈍い。温水器の温度設定を夏に下げてもらっていたのを思いだした。普通へ上げた。今夜それでも効果が小さければ上にしよう。

新潮文庫で読んでいる「死の家の記録」、やっと第一部を終わった。

幻冬舎文庫の亀井訳のカラマーゾフ、「長老たち」を終わる。」

「伊沢蘭軒」その六十四、その六十五。茶山の手紙への蘭軒の返事がないことに苦慮する茶山の手紙の紹介。

「大菩薩峠」十七 七兵衛とお松は松月堂古流・・の花の師匠が、面倒を見ると申し出られ、家に案内される。 十八十九 宇津木文之丞の弟兵馬登場。

「道草」の 五十三 、五十四。 

 

2012年1月6日。金曜日。晴れ。

今日も寒い。昨夜時間と共にどんどん寒くなった。今日は昨日ほどではないにしても夕方からまた寒くなるだろう。

週末、金曜日。今週の仕事は今日で終わり。

亀井訳のカラマーゾフの兄弟は「第2編 場違いな会合」の「1修道院にやってきた」を読んだ。どんどんと人物に深まりが出てくる。

「ドグラ・マグラ」少し読む。コンリートの壁の向こうから「お兄様お兄様」という声が聞こえるが、その声の主がおかしいのか、自分がおかしいのかわからない状況。何しろ自分の過去がいっさいわからないのだから。

西田幾多郎「善の研究」第一編 純粋経験 第三章 意志 2012.1.6.
この章、やや退屈。

純粋経験の立脚地より見れば、主観を離れた客観という者はない。真理とは我々の経験的事実を統一した者である、最も有力にして統括的なる表象の体系が客観的真理である。

「青年」の     四 
 「初音町に引き越してから、一週間目が天長節であった。」ということ。
お雪さんという近所の別荘に住む少女との初見。


直木賞候補に桜木紫乃さんの「ラブレス」が上がっていた。決まりだろう。もし、これが直木賞を受賞しなかったら、選者の見識を疑う。

 

2012年1月7日。土曜日。晴れ。

相変わらず最高気温が10℃を越さない。
9時前に家を出て、広島へ。その前に自動車のタイヤへ空気を入れる。勉強堂へ寄って饅頭を買う。
広島インターで降りて、牛田に中学維持大の恩師を訪ねる。それから県立美術館に広島日展会展を見る。美術館のレストランで牡蛎のパスタを食べてから、再び山陽道で廿日市へ。孫の新居へ、新築祝いを届ける。
ひたすら帰り、途中買い物。4時前に帰り。昼寝。

「道草」 五十五 と五十六。穏やかな筆致だが、実は凄惨。
     五十五 
 「こういう不愉快な場面の後(あと)には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入(はい)って来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。
 けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れといった。細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこっちの勝手だという顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返して憚(はばか)らなかった。」

     五十六 
細君は1か月ほどして戻った。
「同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を蒼蠅(うるさ)くした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。」
「彼は島田の後影(うしろかげ)を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただ凝(じっ)と坐(すわ)っていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時(いつ)までも構う気色(けしき)を見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢(ざしきろう)へ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。」

「或る女」の 五 
米国にいる木村のもとに行くために横浜で服を買ったり、木村の友人の古藤に切符を買いにいってもらったりする。葉子の誘惑を古藤は軽くあしらう。

「不如帰」の二 
「奥様(浪子の継母)は御自分は華手(はで)がお好きなくせに、お嬢様にはいやアな、じみなものばかり、買っておあげなさる」とつねにつぶやきし姥(うば)の幾が、嫁入りじたくの薄きを気にして、先奥様(せんおくさま)がおいでになったらとかき口説(くど)いて泣きたりしも、浪子はいそいそとしてわが家(や)の門(かど)を出(い)でぬ。今まで知らぬ自由と楽しさのこのさきに待つとし思えば、父に別るる哀(かな)しさもいささか慰めらるる心地(ここち)して、いそいそとして行きたるなり。

 

2011年1月8日。日曜日。晴れ。

寒い朝。メダカを飼っていた発泡スチロールに厚い氷が張っている。

朝から因島へ。散髪。それから松の剪定。あまり進まない。でも、何もしないよりは進んでいる。

 

三国志演義を中国語読みで少し読む。

シェールブールの雨傘、釜山港へ帰れ、冬のソナタの主題歌の原語による歌詞があったので音声を聞きながらみる。

 

 

 

 

 

2011年1月9日。月曜日。成人の日。

少し暖かい。今日は一日中家にいる計画のもとにのんびりと過ごす。

「道草」  五十七 五十八 。お金がないのに職を辞めて、半月分の給料を退職金としてもらう。次の就職があるのだろうか? 

「夜明け前 第一部上」第二章 二と三を読む。時代が動く。多いが抜き出しておこう。 
二 .

尾張藩主の出府
 木曾(きそ)寄せの人足七百三十人、伊那(いな)の助郷(すけごう)千七百七十人、この人数合わせて二千五百人を動かすほどの大通行が、三月四日に馬籠の宿を経て江戸表へ下ることになった。宿場に集まった馬の群れだけでも百八十匹、馬方百八十人にも上った。

三 
 なんとなく雲脚(くもあし)の早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州(としゅう)、雲州(うんしゅう)、讃州(さんしゅう)などの諸大名は西から。長崎奉行永井岩之丞(ながいいわのじょう)の一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れた肥後(ひご)の家老長岡監物(ながおかけんもつ)の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。

 この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。

黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、伊那(いな)あたりから入り込んで来る助郷(すけごう)の数もおびただしく、その弊害は覿面(てきめん)に飲酒賭博(とばく)の流行にあらわれて来た。庄屋(しょうや)としての吉左衛門が宿役人らの賛成を得て、賭博厳禁ということを言い出し、それを村民一同に言い渡したのも、その年の馬市が木曾福島の方で始まろうとするころにあたる。
「あの時分はよかった。」
 年寄役の金兵衛が吉左衛門の顔を見るたびに、よくそこへ持ち出すのも、「あの時分」だ。同じ駅路の記憶につながれている二人の隣人は、まだまだ徳川の代が平和であった時分のことを忘れかねている。

 揺り返し、揺り返しで、不安な日がそれから六日も続いた。宿(しゅく)では十八人ずつの夜番が交替に出て、街道から裏道までを警戒した。祈祷(きとう)のためと言って村の代参を名古屋の熱田(あつた)神社へも送った。そのうちに諸方からの通知がぽつぽつ集まって来て、今度の大地震が関西地方にことに劇(はげ)しかったこともわかった。東海道岡崎宿(おかざきじゅく)あたりへは海嘯(つなみ)がやって来て、新井(あらい)の番所なぞは海嘯(つなみ)のために浚(さら)われたこともわかって来た。


 その年、安政二年の十月七日には江戸の大地震を伝えた。この山の中のものは彦根(ひこね)の早飛脚からそれを知った。江戸表は七分通りつぶれ、おまけに大火を引き起こして、大部分焼失したという。震災後一年に近い地方の人たちにとって、この報知(しらせ)は全く他事(ひとごと)ではなかった。もっとも、馬籠のような山地でもかなりの強震を感じて、最初にどしんと来た時は皆屋外(そと)へ飛び出したほどであった。それからの昼夜幾回とない微弱な揺り返しは、八十余里を隔てた江戸方面からの余波とわかった。


 半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸の藤田東湖(ふじたとうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。彰考館(しょうこうかん)の修史、弘道館(こうどうかん)の学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家(ごさんけ)の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯(ひたちおび)』を書き『回天詩史(かいてんしし)』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人(ひとり)として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『正気(せいき)の歌』なぞを諳誦(あんしょう)した時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷(じょうい)かの舞台の序幕の中で、倒れて行った。

(青空文庫より引用)

 

2012年1月10日。火曜日。晴れ。

「旅愁」を読み始める。章だの節だのがないので,どこまで読んだか書きようがない。

「ジャン・クリストフ」も,読み始める。とはいえ,これは既に原文を少し読んでいる。翻訳を青空文庫で読み始めるという意味だ。「第一巻 曙」というのも長いので,どこまで読んだということは,記しずらい。

会議だらけで、なかなか思うようにはいかない。人生とはこんなものだと、思っているので怒ることはないが・・・

 

 

2012年1月13日。金曜日。晴れ。

フィッリプ ボールのネイチャーのエッセーを読む。

セリーヌの 「夜の終わりへの旅 VOYAGE AU BOUT DE LA NUIT」がネット上へあったのでダウンロードした。1932年の作品。

 

 

 

 

2012年1月14日。土曜日。晴れ。

忙しい日が続いた。

昨夜はメルロポンティの「シーニョ」を見つけて、読んでいたら腰が痛くなったので、ベッドの炬燵に入ったらあっという間に寝てしまった。

今朝はいつものように6時過ぎに起きた。朝食後、またまた炬燵で寝てしまい9時前に買い物に行って帰ったら10時。今日は風が無く、やや寒気も緩んだ感じ。

メルロ=ポンティの「レジュメ デ コース」の一部を読む。これはコレージュドフランスでの講義のレジメということである。

しばらく、読んでいないので・・・。

「大菩薩峠」二十,二十一、二十二を読む。

「伊沢蘭軒」

その六十六 その六十七 を読む。 その六十六に、

「茶山の友人は次第に凋落して行くのであつた。」

   

「青年」の五 六を読む。

          六 に以下のような文章がある。「ひそりば」というのは薄田泣菫の造語か。あるいは泣菫が流行らせたのか。

 

 二階は広くてきたない。一方の壁の前に、卓(テエブル)と椅子とが置いてあって、卓の上には花瓶に南天が生けてあるが、いつ生けたものか葉がところどころ泣菫(きゅうきん)の所謂(いわゆる)乾反葉(ひそりば)になっている。その側に水を入れた瓶とコップとがある。

 

 

2012年1月15日。晴れ。

昔で言えば、成人の日で年賀葉書のくじの抽選がおこなわれていた。そういう暦で育ち、大人になってもずっとそうだった。だから、今の制度になって何年もたつが、いまだに実感がない。まして年賀状のくじなど当選番号をみたことが最近はない。

 

今日は因島へ。CDで「真夏の死」の朗読を聞く。不幸の現象学といっていいほど、緻密に不幸の心理/真理が描かれている。

 

外山慈比古さんの本は随分と久し振りのようだ。図書館にあったので「思考の整理学」(ちくま文庫)を借りて読んだ。面白いところが少しあるが、昔ほどこの手の本に感心しなくなったのはこちらが年をとって、頭が固くなったということだろう。

 

夜明け前 第一部上」第二章 四 2012.1.15.

は以下のような書き出しである。少しは時代のようすがわかるというもの。

 安政三年は馬籠(まごめ)の万福寺で、松雲和尚(おしょう)が寺小屋を開いた年である。江戸の大地震後一年目という年を迎え、震災のうわさもやや薄らぎ、この街道を通る避難者も見えないころになると、なんとなくそこいらは嵐(あらし)の通り過ぎたあとのようになった。当時の中心地とも言うべき江戸の震災は、たしかに封建社会の空気を一転させた。嘉永(かえい)六年の黒船騒ぎ以来、続きに続いた一般人心の動揺も、震災の打撃のために一時取り沈められたようになった。もっとも、尾張藩主が江戸出府後の結果も明らかでなく、すでに下田(しもだ)の港は開かれたとのうわさも伝わり、交易を非とする諸藩の抗議には幕府の老中もただただ手をこまねいているとのうわさすらある。しかしこの地方としては、一時の混乱も静まりかけ、街道も次第に整理されて、米の値までも安くなった。

 

「道草」の五十九と六十。

魯迅「阿Q正伝」。 井上紅梅訳 第一章 序を読む。

 

2012年1月16日。月曜日。曇り。

朝から曇って寒い。夜、ほんのわずか小雨。雨というほどではない。

Paulingの論文の翻訳。P.Ballの水のエッセーの翻訳は昨日終わった。

久々に「古寺巡礼」

十三  天平の女――天平の僧尼――尼君

「新来の文化の圧倒的な影響のもとにあっても、彼らの生活の中心は恋愛であった。身と心とを同時に燃焼せしめるような純粋な恋愛であった。しかし恋愛がすなわち結婚であり、情人がすなわち妻であって、両者を区別する意識の稀薄であった当時には、愛の衰うるところに別離があり、愛あるところにのみ運命の安定があったと考えられる。」

「不如帰」三の一。

 

2012年1月17日。火曜日。晴れ。

少し暖かいのか。

「道草」の六十一,六十二,六十三を読む。相も変わらず同じ所をどうどう巡りしているような感じなのだが,少しずつ全員の背景が示される。

「もしあの憐(あわれ)な御婆さんが善人であったなら、私(わたし)は泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って死水(しにみず)を取って遣る事も出来たろう」

 黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。

「伊澤欄軒」 その六十八,その六十九,その七十

アマチュアの特権というのは、気が向かなければ止めればよいということだろう。それに対して専門家というか、職業として読書をする人にとっては、そういうわけにいかない。そもそも本来の読書というのは、著者が、どういう問題に対して、どういう解答を与え、何が未解決の課題として残ったか、を読みとる作業である筈である。そういうことも、アマチュアならば、しなくてもよいであろう。ということで、享楽の読書である。

「真夏の死」の朗読CDが終わった。後半をもう一度聞いてみよう。

 

 

2012年1月18日。水曜日。晴れ。

晴れている。でも気温は低い。

「青年」の七

作家の講演会である。小説家を志す青年の話だから,こういうのを書いていては自家中毒に陥ろうと思う。そうならないところは,鴎外の教養が些細な事柄を支えているからである。しかし,後半は退屈。

「活字は自由でも、思想は自由でないからね」

緩(ゆるや)かな調子で、人に強い印象を与える詞附(ことばつき)である。強い印象を与えるのは、常に思想が霊活に動いていて、それをぴったり適応した言語で表現するからであるらしい。

 大分話が進んで来てから、こんな事を言った。「イブセンは初め諾威(ノオルウェイ)の小さいイブセンであって、それが社会劇に手を着けてから、大きな欧羅巴(ヨオロッパ)のイブセンになったというが、それが日本に伝わって来て、又ずっと小さいイブセンになりました。なんでも日本へ持って来ると小さくなる。ニイチェも小さくなる。トルストイも小さくなる。ニイチェの詞を思い出す。地球はその時小さくなった。そしてその上に何物をも小さくする、最後の人類がひょこひょこ跳(おど)っているのである。我等は幸福を発見したと、最後の人類は云って、目をしばだたくのである。日本人は色々な主義、色々なイスムを輸入して来て、それを弄(もてあそ)んで目をしばだたいている。何もかも日本人の手に入(い)っては小さいおもちゃになるのであるから、元が恐ろしい物であったからと云って、剛(こわ)がるには当らない。何も山鹿素行(やまがそこう)や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなったイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」まあ、こんな調子である。

 

「夜明け前 第一部上」第二章 五 2012.1.18.

半蔵は妻の兄の寿平次と江戸に出る話でもちきりである。

妻籠の寿平次のところに泊まった客が家紋が同じことから,同じ三浦氏の子孫だと言って,その客のほうを訪ねることにしたからである。

ここで第二章は終わる。ちょっと嘘くさい話だが,半蔵が江戸を見に行くことによって物語が大きく転回しそうである。

 

「レ・ミゼラブル」は

「第一部 ファンティーヌ  第五編 下降 五 地平にほのめく閃光」

少し,あらすじではないが,それらしきものを。

 

 しだいに、そして時がたつにつれて、反対はみななくなってしまった。立身した人々が常に受くることになってる中傷や誹謗《ひぼう》などは、初めマドレーヌ氏に対してもかなりなされたが、やがてそれらは単なる悪口になり、次ぎには単に陰口になり、ついにまったくなくなってしまった。

 

 そしてマドレーヌを追う天敵ともいう男が登場する。ということはマドレーヌが主人公ジャンであることがわかる。

 

 彼はジャヴェルといって、警察に出てる男であった。

 警察のある種の役人は、陋劣《ろうれつ》と権威との交じった複雑な特別な相貌をそなえてるものである。ジャヴェルは陋劣の方を欠いたその特別な相貌を持っていた。

 吾人の確信するところによれば、もし人の魂なるものが目に見えるものであったならば、人間の各個人は各種の動物の何かに相当するものであるという不思議な一事を、人は明らかに知るであろう。そして、蠣《かき》から鷲《わし》に至るまで、また豚から虎《とら》に至るまで、すべての動物が人間のうちに存在し、各動物が各個人のうちに存在しているという、思想家がかろうじて瞥見《べっけん》する真理を、人はたやすく認め得るであろう。時としてはまた数匹の動物がいっしょに一人の人間のうちにあるということをも。

 

 アスチェリーの農民の間には次のことが信ぜられている。狼《おおかみ》の子のうちには必ず一匹の犬の子が交じっているが、それは母狼から殺されてしまう、もしそうしなければその犬の子は大きくなって他の狼の子を食いつくしてしまうからである。

 その狼の子の犬に人間の顔を与えれば、それがすなわちジャヴェルである。

 ジャヴェルは骨牌占《カルタうらな》いの女から牢獄の中で生まれた。

 

 ジャヴェルの口からもれた二、三の言葉から察すれば、彼は彼ら仲間特有のそして意志とともにまた本能から由来する一種の好奇心をもって、マドレーヌさんが他の所に残してきた前半生の足跡を秘密に探っていたらしい。ある行方《ゆくえ》不明の一家族に関してある地方で多少の消息を得ている者がいるということを、彼は知っているらしかった、また時としては暗にそれを言葉に現わすこともあった。

 

 ジャヴェルは明らかに、マドレーヌ氏のまったくの自然さと落ち着きとによって、やや心を惑わされたのであった。

 けれどもある日、彼の不思議な態度はマドレーヌ氏に印象を与えたらしかった。いかなる場合でかは次に述べよう。

 

 

「古寺巡礼」は「十四 西の京――唐招提寺金堂――金堂内部――千手観音――講堂」

 

 個々の遺物の分析と鑑賞は,本文を見てもらえばよいので,ここでは冒頭にある,奈良の町のたたずまいを述べた文章を挙げておこう。

 

 法華寺で思わず長座をしたので、われわれはまたあわてて車を西に駛(は)せた。法華寺村を離れると道は昔の宮城のなかにはいる。奈良と郡山の間の佐保川の流域(昔の都)を幾分下に見渡せる小高い畑地である。遠く南の方には三輪山、多武(とう)の峯(みね)、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞(かすみ)のなかに畝傍山(うねびやま)・香久山(かぐやま)も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山(いこまやま)。それがみな優しい姿なりに堂々として聳(そび)えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである。

 

 

 引用が多くなった。かなりの時間机に着いていたのに、あまり進んでいないように思われる。人生とはそんなものか。目に見えるもののほうがはるかに少なくて、多くは時間の波に洗われて消えてしまう。身体の中に残ったものも、時とともに忘却の彼方へ連れ去られていく。

新潮文庫の「死の家の記録」はやっと416ページ。残り1/4ほど。退屈さと惰性をすっかり通り越して、習慣化している。

 中国語と朝鮮語が、停滞していたのが進み出した。アラビア語、ヘブライ語、ヒンディは停滞したままだ。これももう少ししたら、動き出す予感がする。中国語と朝鮮語が軌道にのったら、時間をさいてもよい。

 

2012年1月19日。木曜日。雨。

久々の雨。もっと降ってほしい。

 

「城」DAS SCHLOSS フランツ・カフカ Franz Kafka著 原田義人訳(青空文庫)

これは河出の文学全集に入っており,既にはじめのほうはドイツ語と対応させながら読んでいるのだが,例によってそちらは蝸牛の歩み以下ののろのろ速度であるので,青空文庫にアップされたのを機会に,こちらを読んでみることにしょう。以前にも書いたように,本棚を探さなくてもよいということと,活字を大きくできるというメリットもある。

第一章 奇妙な小説だ。少々語句が荒っぽい。もっと素直な訳にできないか?

 

 

小沢章友著「三島転生」(ポプラ社)終わる。

 力作である。途中,東部方面総監部へ向かう車がコロナからカローラになったりするが,それはともかく,よくまとまった三島論だ。よく資料をこなし、いきいきと三島由紀夫を甦らせており、現に生きて活動しているような印象を与える。同様に、疲労した三島も伝わり伝染する。

 三島さんの文章の才には驚嘆すべきものがあるのは言うまでもないが、その努力のかいあって、人工的に身につけた語彙を他の誰よりも、自己のものとしていることはあきらかであろう。エッセーで辞書を読んだとか、キーツの詩を謡曲の文体で訳したとか、鴎外の文体を手本にしたとか、いろいろ書かれているが、その努力の生の部分は公表していないのではないかと思う。例えば、近松とか謡曲とか何かを暗記していたとか、というHow toに属することがらである。もちろん学習院を首席で卒業されたのだから、古典も、漢文も相当できたことは確かであろうが。

他に、

「大菩薩峠」二十三  二十四 。

 

 

2012年1月20日。金曜日。晴れ。

5時に起きる。雨は止んでいる。もっと降ってほしかった。

8時前に少し寝る。

「阿Q正伝」(魯迅著、井上紅梅訳、青空文庫) 第二章 優勝記略 を読む。

「城」は第二章を少し。

夜、「神学大全スンマ」と「告白」を世界の名著を見ながら、ラテン語で読む。ネオラテンという言葉があったが、どこからを指すのだろうか。

 

ラジオで小塩節さんのヘーゲルの見事な朗読を聞いた。後半だけだったので、どの部分かはわからなかった。精神現象学のどこかだろう。序論には精神と教養という言葉がたくさん出てくるのでそのあたりか。ラジオ深夜便のゲーテについての談話があったので、聞いた。

 

2012年1月21日。土曜日。曇り、一時雨。

少し雨が降るも、概ね曇り。

「阿Q正伝」の「第三章 続優勝記略」を読む。

「青年」の八、九。イプセンの劇を見に行って、坂井という同郷の学者の未亡人と知己になる。現在ではこのようなおとぎ話のような出会いは不自然だが、明治の時代なら、読者は文句を言わないだろう。

情報などないに等しいような時代だから、鴎外がこれだけのものを書くだけでも凄いことだったに違いない。そして、読者にとっても、意味があったに違いない。

情報が乏しいということは作者のほうにとっても、事情は似たようなものだったに違いない。だから、この時代の物書きが、今の物書きより楽だったということはないだろう。

今年は、一二月一月と寒い日が多かったので寒い二月を目前に控えても、嫌な気持ちにならない。もう、これ以上の寒さは来ないだろうと、変な安心感がある。

 

 

2012年1月22日。日曜日。晴れ。

朝から因島です。天気予報とは裏腹に早春の日射しです。蝋梅が黄色い花をつけています。小島の春です。

例によって松の剪定です。腰が痛くなった。

往復の自動車では、三島由起夫さんの「わが友ヒットラー」の本人の朗読CDを聞く。

 

2012年1月23日。月曜日。晴れ。

晴れているが気温が低い。寒波襲来。併せて、腰痛襲来。

「城」第二章読む。

「古寺巡礼」十五 2012.1.23.

唐僧鑑真――鑑真将来品目録――奈良時代と平安時代初期

仮名文字は漢字の日本化ではなくして漢字を利用した日本文字の発明であり、寝殿造りも漢式建築の日本化ではなくしてシナから教わった建築術による日本式住宅の形成である。すなわちこれらの変遷は外来文化を土台としての我が国人独特の発達経路と見らるべきである。固有の日本文化が外来文化を包摂したのではなく、外来文化の雰囲気のなかで我が国人の性質がかく生育したのである。

外来の様式を襲用することは、それ自身恥ずべきことではない。その道において偉大なものを作り出せさえすればよいのである。

確かに天平時代はその偉大なものを造った。この地盤がなければ、藤原時代の文化も起こり得なかったであろう。

「道草」

     六十四 

「とうとう遣(や)って来たのね、御婆(おばあ)さんも。今までは御爺(おじい)さんだけだったのが、御爺さんと御婆さんと二人になったのね。これからは二人(ふたあり)に崇(たた)られるんですよ、貴夫(あなた)は」

 それに、六十五 

 

「伊澤蘭軒」

     その七十一 

     その七十二 

「青年」 十

   純一が日記の断片

人間が生きていたと云って、何も齷齪(あくそく)として日記を附けて置かねばならないと云うものではあるまい。しかし日記に縛られずに何をするかが問題である。何の目的の為めに自己を解放するかが問題である。

 一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜(くぐ)ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為(な)し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。

 現在は過去と未来との間に劃(かく)した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。

 午後から坂井夫人を訪ねて見た。有楽座で識りあいになってから、今日尋ねて行(ゆ)くまでには、実は多少の思慮を費していた。行こうか行くまいかと、理性に問うて見た。フランスの本が集めてあるというのだから、往(い)って見たら、利益を得(え)ることもあろうとは思ったが、人の噂に身の上が疑問になっている奥さんの邸(やしき)に行(ゆ)くのは、好くあるまいかと思った。ところが、理性の上でpro(プロウ)の側の理由とcontra(コントラ)の側の理由とが争っている中へ、意志が容喙(ようかい)した。己は往って見たかった。その往って見たかったというのは、書物も見たかったには相違ない。しかし容赦なく自己を解剖して見たら、どうもそればかりであったとは云われまい。

 己はあの奥さんの目の奥の秘密が知りたかったのだ。

 

 

「夜明け前 第一部上」第三章 一 

いよいよ半蔵の江戸への出発である。

「蜂谷(はちや)君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、妻籠(つまご)本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在の公郷村(くごうむら)に遠い先祖の遺族を訪(たず)ねるためであるが、江戸をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めての旅に上ろうとしている。」

 こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。

「君によろこんでもらいたいことがある。自分はこの旅で、かねての平田入門の志を果たそうとしている。最近に自分は佐藤信淵(さとうのぶひろ)の著書を手に入れて、あのすぐれた農学者が平田大人(うし)と同郷の人であることを知り、また、いかに大人(うし)の深い感化を受けた人であるかをも知った。本居(もとおり)、平田諸大人の国学ほど世に誤解されているものはない。古代の人に見るようなあの直(す)ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。」

 という意味をも書き添えた。

 当時平田派の熱心な門人は全国を通じて数百人に上ると言われ、南信から東美濃(みの)の地方へかけてもその流れをくむものは少なくない。篤胤ののこした仕事はおもに八人のすぐれた弟子(でし)に伝えられ、その中でも特に選ばれた養嗣(ようし)として平田家を継いだのが当主鉄胤(かねたね)であった。半蔵が入門は、中津川の宮川寛斎(みやがわかんさい)の紹介によるもので、いずれ彼が江戸へ出た上は平田家を訪(たず)ねて、鉄胤からその許しを得ることになっていた。

 

2012年1月24日。火曜日。晴れ。

「大菩薩峠」 二十五、二十六、二十七
         二十五 2012.1.24.
 宇津木兵馬が入門の初め、島田先生はこういうことを教えました。
 剣術は自得である。筑後梁川(やながわ)の藩に大石進という者がある。性質愚に近いほどの鈍根(どんこん)で、試合に出ては必ず負ける。後輩年下の者にさえさんざんに打ち込まれる。そのたびごとに笑われ嘲(あざけ)られる。或る時、非常なる辱(はずかし)めに会ってから、さすがの鈍物(どんぶつ)も藩の道場に姿を見せなくなった。それより門を杜(と)じて、天井より糸で毬(まり)をつるし、それを突くこと三年間、ついに天下無敵の突きの一手を発明してしまった。再び道場に現われた時は藩中はおろか、天下その突きの前に立ち得るものがない。(島田虎之助に、男谷下総守(おたにしもうさのかみ)、それにこの大石進を加えて当時天下の三剣客という。)


「みみずのたはごと」 四 を終えて、「都落ちの手帳から 千歳村」へ入る。まずは、一と二 。.

与謝野源氏で「蓬生」を読む。

この冬一番の寒波。昼間から寒い。夕方、雲ひとつなく青い空が広がっている。益々冷却される。

 

2012年1月26日。木曜日。晴れ。

相変わらず寒波が続いて、寒い。

「古寺巡礼」
十六 を読む。 

薬師寺、講堂薬師三尊――金堂薬師如来――金堂脇侍――薬師製作年代、天武帝――天武時代飛鳥の文化――薬師の作者――薬師寺東塔――東院堂聖観音
 天武帝は壬申(じんしん)の乱(らん)を通じて即位せられたために、古来史家の間にさまざまの論議をひき起こしてはいるが、われわれにとっては他の意味で興味の深い代表的人物である。第一に、帝は万葉の歌人として名高い。額田王(ぬかたのおおきみ)に送って千載(せんざい)の後に物議の種を残した有名な恋歌「紫の匂(にお)へる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑに吾(われ)恋めやも、」の一首は、帝の情熱的な性質を語って余蘊(ようん)がない。その情熱はまた仏教を信ずる上にも現われた。殺生戒(せっしょうかい)を守って肉食を禁じたのは帝である。この以後日本には獣肉を食う伝統が栄えなかった。従って日本人はその体質の上にも文化の上にも、天武帝の影響を著しく受けている。また帝は晩年に諸国に令して家ごとに仏壇を設け仏像と経典とを備えしめた。これも現代まで一般の風習として存続するほどの有力な伝統となったが、特に当初においては仏教を国教として国民に強制するという過激な意味を持っていた。この帝のもとに仏教が急速の繁栄を遂げたろうことは何人にも否み難い。天子が頻々として諸大寺に幸し、あるいは多くの僧尼を宮中に安居せしむる等のことは、この帝の晩年に始まったのである。帝の病のために諸寺僧尼や上下の諸臣が一斉に活動して読経・造像・得度・祈願等につとめたのも、この時以前にはないことであった。天智帝崩御の前にも内裏に百仏を開眼し、法興寺(ほうこうじ)の仏に珍宝を奉供したが、仏にすがる情熱においてはほとんど比べものにならない。天武帝が礼仏の雰囲気のうちで崩じたに反して、天智帝は皇位継承のゴタゴタのうちに崩じたのである。天平文化に直接の基礎を置いたものは、天智帝でなくてむしろ天武帝であった。

「道草」
     六十六 
     六十七 

三島全集のCDで「椿説弓張月」の朗読CDを聞く。

本日、整体の日。

 

2012年1月27日。金曜日。晴れ。

厳寒と多忙の一週間でございました。やっと、金曜日の仕事を終えました。
同じような仕事をしても、疲労度が違います。もう若くはないんだ、と折々感じる日々です。

ドストエフスキー「死の家の記録」(新潮文庫)をやっと終わった。おしまいのほうにある「脱獄」のところは凄い。他の囚人たちの心理が手に取るようにわかる。恐るべき観察である。
次は「虐げられた人びと」である。同じく新潮文庫で読むつもりで、購入しようとしたとき、新刊の新潮文庫よりも同じ訳者による文学全集の古書のほうが安いので、そちらにする。新潮世界文学11である。

 

 

2012年1月28日。土曜日。曇り。

土曜日。寒波が少し和らいだ。朝、買い物。少し雲が多く、日射しが弱いのが残念。それでも、山々の枯れ木は既に新しい芽がふくらんでうっすらと霞がかかったように見える。気温は低いが、日射しは明るく、日に日に春に向かって進んでいるようだ。

 

小塩節(文)・津田孝二(写真)著「ゲーテ街道を行く」(新潮社・とんぼの本)を読んだ。美しい写真を見ながら、ゲーテについての案内を聞くおもむき。さまざまなエピソードと歴史がまざった楽しい本である。

 

2012年1月29日。日曜日。晴れ。

幸いなことに寒波が弱まった。今朝は珍しく氷が張っていない。

因島へ。二時間ほど松の剪定。風もなく日が照っていたので、快適であった。

 

「古寺巡礼」

十七 奈良京の現状、聖観音の作者――玄弉三蔵――グプタ朝の芸術、西域人の共働――聖観音の作者――薬師寺について――神を人の姿に――S氏の話

 

「道草」 六十八、六十九

 淋(さみ)しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行った。そうしてついぞ見た事もない新開地のような汚ない、町の中へ入った。東京で生れた彼は方角の上において、自分の今踏んでいる場所を能く弁(わきま)えていた。けれども其所(そこ)には彼の追憶を誘(いざな)う何物も残っていなかった。過去の記念が悉(ことごと)く彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。

 

山田風太郎の明治小説コレクションの一節に漱石と一葉がであうところがあった。案外こんな感じのところであったのではなかろうか。ここでは詳しくは書いてはいないが。

 

「レ・ミゼラブル」

第一部 ファンティーヌ  第五編 下降  六 フォーシュルヴァンじいさん

     七 パリーにてフォーシュルヴァン庭番となる

     八 ヴィクチュルニヤン夫人三十五フランをもって貞操を探る

     九 ヴィクチュルニヤン夫人の成功

ドストエフスキーの「虐げられた人びと」の第一部の第一章と二章を終わる。いきなり、痩せた犬を連れた痩せた老人の話から始まった。その老人を見るドイツ人移民の心理の「見事さにまたまた舌を巻く。そして、第二章では、急に自分の話というか一人称の作家の話になる。さて、物語はどう展開していくのか。

 

 

2012年1月30日。月曜日。晴れ。

「虐げられた人びと」の第三章、「私」の養父のニコライ・セルゲーイチ・イフメーノフのことと、その養父を管理人にしてしまったワルコフスキー公爵の登場である。

「古寺巡礼」 十八 博物館特別展覧――法華寺弥陀三尊――中尊と左右の相違――光明后枕仏説

「青年」は十一を読む。

 

2012年1月31日。火曜日。晴れ。

透明な空気のもと明るい日がさわやかに照っているのに、気温は低く寒気の中を1月が去っていく。例によって慌ただしい日々だが、空の明るさだけがうれしい。

朝、タイサンボクに似た庭木の葉が萎れていたので、寒気や水不足で枯れ始めたのかと思った。夕刻、帰宅してみると、葉はピンと立ち、勢いを盛り返していたが、こんな状態では枯れてしまうと思われたので、夜、庭に水を撒いた。初秋に降った雨は、時折小雨を降らせただけで、その後長く、激しい雨がなかったので、土地もかなり乾いていたに違いない。こういう寒波のときこそ、その他の環境を整えてやることも必用かと思われる。

「虐げられた人びと」は第四章を読む。話者の養父であるイフメーネフは領地の管理を任されている公爵の信頼を近隣の者の中傷による冤罪で急速に失い、裁判まで起こされしまう、という変な展開になったことが、粗筋程度に記述されて示される。

「境遇」は、例によって、施設の子は・・と、あまり人前では言わないことを正面に出すところが多くの読者に受けるのだと思われるのだが、今回もホンネの直球を、次から次へと投げてくる。

「古寺巡礼」の 十九 西大寺の十二天――薬師寺吉祥天女――インドの吉祥天女――天平の吉祥天女――信貴山縁起

「青年」は十二。「三四郎」を思いだした。それぞれの青春小説だ、「雁」の印象とは随分異なるようだ。「雁」の内容はもう忘れたが、雁を食べたことを後悔した話だっただろうか、などと思う。個人の描き方は、「青年」とどう違うのだろうか。もちろん、こちらもあれから四十年以上歳をとっているので、もう一度読んでみないと、違いなどわかりはしないが。

今月は、引用ばかりで、あまり書かなかったと反省。とにかく慌ただしかった。今月も読み始めた本は山ほどある。(ここには書かないが)。そのうち、どれだけが最後まで読まれるかは、多いに疑問とするところ。

ドストエフスキーの次はプラトン全集にしようか、などと、昨日思った。一巻を出してみると、終わっていた。二巻にいくよりも、「国家」と「法律」とかの長いのを先に終わっておくのがよいかと思い「国家」を出してきた。世界の名著にも、古典文学全集にもあってところどころ読んでいるが、ここは活字の大きい全集で読むのがよいかと、思う。

 

 

 

今年1冊目。

外山慈比古著「思考の整理学」(ちくま文庫)。

今年2冊目。

小沢章友著「三島転生」(ポプラ社)。

今年3冊目。

ドストエフスキー著、工藤精一郎訳「死の家の記録」(新潮文庫)。

今年4冊目。

小塩節(文)・津田孝二(写真)著「ゲーテ街道を行く」(新潮社・とんぼの本)。

 

 

 

今月見た映画・ビデオ等

「真夏の死」(三島由紀夫作・蟹江敬三朗読)(新潮社)

「わが友ヒットラー」(三島由起夫作・本人朗読)(新潮社・(新)三島由紀夫全集41巻)

「椿説弓張月」(三島由起夫作・本人朗読)(新潮社・(新)三島由紀夫全集41巻)

 

 

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